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知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

偉いと錯覚する人の話

    例えば、運転免許、自動車教習所で教官が間違えた話をしたところで、反論もしないし、賛意も挨拶程度にして、ただ話を流しながら我慢するのは、受講し、教官が了解しなければ、免許を獲ることが困難になるからです。ですから過去の教習所では、大変威張っていた人がいて、体罰を受けたと言う事までありました。我慢して従っているのは、自動車免許の教官としての専門的知識と技能についで、それ以外の全てに本当は反感を持っているなどということがあっても、その時は誰も言いません。同様に、先般中学校の校長が女性は2人以上出産などと中学生を前に得々と話して批判されても、検証さえ出来ずに、陶酔していることがありました。この校長は、記者の取材に「私は教師だ」「勉強してからこい」などと言い続けていました。少子化というのは子どもを沢山産むと言う事ではないことすら理解していないだけでなく、日本の国のことばかりで地球のことは全く考えていない浅学の私論にマスコミが反応したことに酔いしれていました。地球の人口は増え続け、その食料を確保するだけでも自然破壊が続いています。中国では生みたくても生めない一人っ子政策で、生んでも住民登録さえ出来ずに教育も受けられなかった子ども達がいたり、インドの人口が貧困の原因となっていることや、元々日本の国土にどれだけの人工なら食料を自給でき幸せな暮らしが出来るのかという検討が必要なのに、人工が国力だと勘違いしています。少子化が進むと年金問題がなどと語る人もいますが、今の年金制度が適正なら人口問題に絡めてもいいのですが、今の制度は破綻しているのですから、今の若い人向きに再検討する方が正しいと思います。中学生は、そんな反論や討論が出来る環境に置かれていません。一方的に聞かざるを得ない環境の中で、一方的な話を得意げに偉くなったと錯覚した校長が語ることは害あっても益はありません。立場として相手に従順にしていなければならない状況下で、専門外の私論を展開するのは、卑怯な行為です。つまり、フェアーじゃない環境で、自分に対して従順に従わざるを得ない環境で押し売りすることは教師が行うことではないのです。もし、本当に校長が私論に自信があるなら、講演会でも演説会でも全く利害のない人に話せばいいのです。人質(内申書含めた評価)を取られていると言う学生の親の前で語ったところで、学生に語ったところで、フェアーではないのです。特別支援学校の学校長を何人か知っていますが、同じように偉い人になったと錯覚している人ばかりでした。学校という権威は、教師個々人にあるのではなく、国家の制度として成り立っています。謙虚な教師にたくさん出会いましたが、校長になると人は変貌するのかも知れません。民間会社のように自分で立ち上げて獲得した権威ではなく、国家としての機能の一部としてある権威で、そのポジションに着いた途端自分が偉くなったと錯覚しています。過去の公務員が一般の人に上目目線で対応していたときのままです。同様のことが、スポーツでも起きます。スポーツでは、強いチームに所属したいとか、良いコーチに指導を受けたいという学生やスポーツマンに対して、叱り、怒鳴り、苛めに、体罰が付きまといます。強くなりたいと言う希望を悪用して、しがみつかなければならないような環境の中で、人格否定的なことまでが行われることがあります。一度出来た上下関係の改善は非常に難しいく、叱られると動揺する心理的な萎縮がますます、運動機能を下げてしまうこともあります。強いチームの監督になったら、偉くなったと勘違いする環境が日本にはあるから、スポーツ現場の体罰がなくならないのです。

 自分より弱い者を前にして、得意になる者は、自惚れ・自慢では済まないのです。弱者への加害行為と同じです。ドラえもんジャイアンのワンマンショーを見て、同じことをやっていると認識できないことが不幸なのです。通り過ぎることを待っているのに、みんなが、話しを聞いていると勘違いしている校長には、大人としての社会性がないのです。こんな校長は、「実るほど頭をたれる稲穂かな」とひとには説教するのです。「我以外皆我師」と言ったのは吉川英治氏です。力関係の中で、従順にしていなければならない環境の中で偉そうにするのは卑怯者でしかありません。反論も批判も出来る環境で受けて立つことこそ偉い人の行動と思います。