知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

トロッコ問題で覗きこんではならない心の話

 トロッコ問題を小・中学生に出したとしてテレビで話題となりましたが、そもそも論で言えば、クイズ感覚で奇抜な問題を出した非常識な話だったと思うのです。つまり、質問を作る、質問をするということは、どんな回答を求めているかという想定によって設定するものです。そうでないと何のために問うのかが全く不明になってしまいます。問うと言う事は、明確な目的や想定される回答を求めて行うものです。しかも問い方によって相手の反応も、回答内容まで誘導することも可能です。単純なアンケートで、反対意見を集めたいのなら、質問項目は、「賛成ですか」と聞くよりも「反対ですか」と聞く方が効果的です。ですから、質問者は、どんな結果を世目論んでいるかの想定だけでもしていなければならず出たとこ勝負なんて質問をしてはならないのです。そんなことをしたら答える方が混乱して、結果として場違いな回答や誤った回答へ誘導してしまい集計の意味さえ失われてしまいます。では、そんな視点でこのトロッコ問題を考えてみたいのです。トロッコ問題の主訴は、簡単に言えば、誰かの犠牲で誰かが助かる方法に遭遇したらどうするかという質問で、哲学、道徳、倫理の面からの回答が欲しいので、それた回答とならないように、絶対にトロッコは止まらないとか、一人が死ぬか、多数が死ぬかのどちらかの選択をあなた自身が決定しなければならないという限定条件の中での回答を求められます。生命の大切さの為の多様な発想が許される条件はありません。むしろ、長年人間とは何かを問い続けている人に対する禅問答の様な問いと考えるべきだと思うのです。しかも、この問いの深いところは、現実の社会の中に、常に存在して、実際は案外緊急時に考えもせず判断されている多くの事例に対しての問いとも言えます。例えば、「ハイジャックされたとき人質を救う場合、人質の中に犠牲者が出ても多数が救われるならその手段も正当になる」「原爆を落としたことで、戦争が終結し何百万の命が救われた」「ヒーローものは、みんなのために悪を殺し悪は退治されても良い」等々でここには日本的感性は関係ありません。つまり、正義のためなら多少の犠牲は許容されるかという問いでもあります。それをもっと詰めていくと、民主主義の多数決の原理だって、多数のために少数が犠牲になるということは往々にしておきます。それは、正しいのかという事になれば意見は全く様々になりますが、この問題は様々な意見を求めることで論議していこうというもので正解は見つかっていません。ですから、回答が無いような質問を、小・中学生に問うのは意味のないことだということがここでもはっきりしています。さらに、問題の目的も、問題の意図も全く理解も出来ない回答者が出す、回答自体が適切ではないだけでなく、統計的にも処理が出来ず、集団に問う問題としては全く適さないからです。それでも、子どもたちに問うてみたいというなら、条件を外して、子供たちの自由な発想でどうしたら命が救えますかと問いかけてみるなら少しは意味を持ってきます。大人が考える正義的なこととは関係なく、命は守れるかと聞いたなら子供たちは素晴らしい発想で考えてくれると思うのです。大人なら、単純に小説の「塩狩峠」のテーマにある、自己犠牲によって列車の乗客を救った話のように線路に身を投げ出してみんなを救うということもありそうですが、子どもたちなら、自分も助かりみんなも助かる方法を奇想天外に考えられますから、トロッコぐらい線路に石を置いて脱線させればいいということから始まるかもしれません。素早く縄を解くなんてことも考えられますし、大声で本人たちに知らせるとか、トロッコに飛び乗ってブレーキを掛けるとか、飛び乗ったトロッコをわざと脱線させるとか、子供ならではの発想の面白さが出てくると思われます。ところが、この問題を出したというスクールカウンセラーは、授業でこの問題を使って、「選択に困ったり、不安を感じたりした場合に、周りに助けを求めることの大切さを知ってもらう」のが狙いだったと言っているのです。その目的でこの問題を使うとしたなら、心理職でありながらこの問題のテーマも知らなかったのかと笑われてしまうようなことです。子供たちは何時も正解のあるテストを受けて、テストに関して分からないから他者に聞くなんてことは反射的にも出来ない訓練を受け続けています。だから、紙ベースで問えば、正解を求めてしまうのが当然でそんな認識もなく子供たちの前に立ってしまうことが問題です。譲って、スクールカウンセラーが言う事を信じたとしても、この問題には周りには誰もいません。自身で判断することが求められています。ですから、この問題で周りに助けを求めることを学ぶことは絶対に無理です。こんな問題で子供の倫理観を覗いてみようとしたのなら、悪趣味としか思えません。心理職にとって大切なのは、相手の心を覗き見る事ではなく、必要な課題に対して本人の持てるパワーを引き出して自らの力で解いてみようとする気持ちにさせる事だと思うのです。逆に、試されていると感じる子供たちからは、自分の気持ちに素直に感じたままで表現することは危険だ、相手が信用できない、この問題は罠だとしか考えられないような、不適切質問と言えます。質問は、相手を評価することが主目的になってはならないのです。スクールカウンセラーの言う、必ず応援する人がいるから表現してくれと言うことなら、子供の思考発達段階に、応じた他に事例も、質問も、課題も、いくらでもあることを学習すべきだと思うのです。つまり、トロッコ問題は、人を試す問題でもあるのですから、安易に興味本位に行うべきではないのです。他人の家に訪問して、奧を覗きこむような感覚で人の心を覗いてはならないのです。

 

自立は、関係者の利害の話

 心地のいい言葉に自立があります。聞くだけなら素晴らしいひびきですが、それが強制されるということなら自立を求められた本人にはつらいことです。関係者は、自立は素晴らしいことで人間として当然であり自然なこととまで言い、自立は本人のためと力説しますが、実際には、自立のゴールが一体何なのかを説明することがありません。さらに、関係者は、本人には十分な自立の可能性があると強調しますが、その根拠は言葉ばかりで実態を説明することはありません。にもかかわらず、自立を奨められた本人は、関係者の期待に合わせた成長をしなければならないのです。ですから、自立とは何かを具体的に明示してどんな行動をしたらよいかを具体的に云っていただかないと本人には、ゴールが全く見えないのに進めとばかり言われることになるのです。例えば、働いて生活の出来る給与が得られていれば経済的自立だとすると、働いているのに給与が低くて生活に困窮している人は自立出来ていない人となってしまいます。社会的ポジションもありながら親が大好きで親と暮らしている人は精神的に自立していない人となります。と言うことをグダグダと考えていくと、少しでも他人に依存することがあると自立していないとされるわけで、究極には一人ぼっちで孤独な生活でもしていないと自立しているとは言えないなんてことにもなってしまうぐらい、自立と言う言葉は、現代社会では曖昧な言葉なのです。にもかかわらず、様々な場面で相手に説教するときに自立を目指せと言えば、済んでしまうような魔法の言葉でもあるのです。他にも、相手が出来ないことを延々と求める言葉に、勉強しろということもあります。何を一体どれほど勉強すればいいのかはとても不明です。この様な抽象的で後でどうにでも言い訳の出来る言葉は、本当の実態や実情を知らないか、知っていても解決すべき具体的内容を持たない人が発することが多いのです。福祉の世界では、障害があって出来ないから福祉サービスがあるのですが、実際は自立を目指さなければサービスを受けることは出来ないのです。

 現在の障がい者のための法律は、正式には、「障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律」で、略して「障害者総合支援法」というのですが、この法律を利用するには、計画相談という手続きで、サービス等利用計画の作成が必須ですし実施後はこの計画に基づいて、サービス等の利用状況の検証(モニタリング)も必須です。この必須条件の書類の記載事項には、本人のための長期目標、短期目標、解決すべき課題、支援目標、達成時期、課題解決のための本人の役割、評価時期、があるのです。もし、法律の理念通りなら、サービスの利用なのですから、利用に当たって、目標や課題解決や達成時期なんて全く必要などないはずです。普通の人でも、役所へ行って必要書類を受け取るサービスを受けとるために、目標設定などしませんし、コンビニに行って選んだ接客サービスの実施目標など書類に記載して許可を求めなければならないなんてことはありません。しかし、この支援法では、本人がサービスを購入するのだと説明しながら、そのサービスを購入して、課題を解決しなければならないとしているのです。つまり、支援サービスを購入して課題を克服して自立しなさいというのです。既に成人した方が、支援サービスを受けるためには、目標を立て、解決すべき課題を整理し、達成時期を計画し、課題解決のために自分がどうしたらいいかを考えて行動しているかが、時期的に評価されるというものなのです。法の目的が、自立を支援するものである生活保護ではこんな個別支援計画の策定や評価などはしていません。なのに、障がい者には、こんな条件を付けているのです。生活に必要なサービスなのですから、本人に条件を付けずに提供すればいいのです。むしろ、支援サービスを提供者に対して本人が、評価したものが必要だと思うのです。こんなことを求める根底には、障がい者への偏見があると思うのです。つまり、税金で、保護されているのだから本人も努力して頂くのは当たり前、常に目標を持って生活させる事が、成果効果を上げる事が必要であると考えているからこんなことになるのです。行政監査では、この個別支援目標とその記録や評価、そして課解決すべき課題のための関係者の会議まで記載されていないと指摘事項にされるほど重要な内容になっています。障害があると行政も認定しているのにその障がいの為のサービスを受けるには個別の目標を立てて努力しろというのは、少しでも出来るようになれという、自立の強制・強要だと思うのです。税金を無駄に使用していません。一生懸命努力していますという証明が必要と誰が思っているのでしょう。一体誰に向かって、長期・短期の目標を立てて頑張りますから、支援サービスを認めてくださいと言わなければならないのでしょう。本人がなりたくて持った障がいではありません。個別支援計画を支援するとして、サービス管理者を義務設置していますが、結局本人の欠点や短所、出来ないことの克服が努力目標とされています。税金で支援される以上は、一生大人になっても、目標を持って生きろと強制されているのが、現状です。その言い訳に、自立と言う言葉が使われているのです。障がいを持つ人には、目標のゴールもなく、努力目標設定であったとしても、いつになったらどこまでできたら、目標設定しなくてもサービスを受けられるようになるのか、明示しなければ障がい者自身が何に向かって努力せねばならないかさえ分からなくなります。障害福祉の特殊性は、長い人生に関与することと、成果・効果を計測できないということです。本来は、個別支援計画ではなく、個別支援サービス提供書が、事業所と職員に課せられるべきです。サービス商品としての支援内容を並べて選択していただきその商品を手渡すことが職員の仕事だと思うのです。今や指導訓練ではないのですから、どんなサービスをどれだけ提供するか計画を立て本人が承認し、本人が評価するのが原点なのに、関係者が本人を評価する体制が今も延々と続いているのが障がい者支援サービスの実態なのです。

 

辞めないことに感謝する時代の人材育成の話

 障がい福祉の人材育成は、業務評価を含めた、スキルアップ、キャリアアップなどを

主軸として、福祉の理念、理論、技能方法向上を如何に成し遂げるかという研修プログラムが今も行われています。しかし、今日の障がい者福祉の現場においては、基礎部分さえ不明な方の就労が普通になってきました。つまり、福祉業界には異業種からの参入が増えて福祉関係者の常識は通じなくなってきました。さらに、過去に労働環境の悪さとして云われた「休日がなくて、ボランティア残業だらけで、給料が安い」もそれほど改善されていず、精神的にきつい状況に追い込まれるケースも多い現場であるということもあり福祉は特殊な職場と言う感覚も一般的に続いています。この様な変わらない労働環境をさらに悪化させているのは、社会的な人手不足で中間的な経験者の不足は事業運営に影を落とすまでになっています。その一方で、福祉業界への企業の進出は、新しいサービスを実施したり、特定のサービスに特化したりと、社会福祉法人が必要としてきた人材ではなく、福祉に拘らない人材によって対応しているという事か始まっています。今後も労働環境が厳しい状況は変わらず、人手不足が続く中、障がい福祉の人材育成が、今までの様な、スキルアップ、キャリアアップなど中心でいいのかと言う懸念があります。そもそも、福祉の業界は、福祉の理念なり理論から派生する「やりがい」に依存してきた感があります。福祉を理解さえすれば、「やりがいある仕事」なのだから、誰もがスキルアップ、キャリアアップを求めると考えてきました。そして、「やりがい」に依存して、労働環境の他業種との遅れを放置してきました。福祉なんだからこれぐらいは当たり前、障がいある人が困っているのだから仕方がないだろう方式で、職員の善意を引き出して依存してきました。つまり、職員の「やりがい」は職員の「善意」を引き出す手段になり、労働との関係を二の次としてきました。結果、現在では「やりがい」を感じる前に退職する一方、福祉の理念や理論が門前で嫌悪されてしまう事が往々にして起きています。なぜなら「福祉を理解すること」や「やりがいを感ずること」が、ボラ勤、長時間労働、低賃金の温床であったり、「障がい者のためなんだから」が自己犠牲もありうる労務環境を維持している現状があるからです。入職動機そのものが福祉に関心があるということ程度である職員に、キャリアアップやスキルアップと訴えても、研修を実施しても、本人が望まないポジションや業務への通過儀礼のようにとられ、時間になったら帰れる程度のキャリアで結構ですという状況も出てきています。そこには、福祉は特別な分野、精神的意識が必要な分野と思いこんでいる過去の感覚に囚われている管理・経営者に対して、福祉は対人サービスの一つにすぎないという意識に基づくキャリアがあれば十分と言う職員との意識の違いとなって広がっています。福祉の主たる役割は、生活であり日常性であることから、一定の技能水準が満たされれば、誰もが働くことが可能な職種であり、評価が標準化できず、個性が最も大事にされる職種で、働きかけ一つをとっても、標準化、マニュアル化に最もなじまない職種だからです。福祉の人材養成では、対象者への支援や介護の専門性を追求することに基本が置かれていますが、それを求めることが困難な人材をも活用しなければ現場が回らない時代に遭遇しています。数年で離職する、資格を取得したら転職する等の環境の中で、キャリアアップやスキルアップと訴えていても、離職を食い止めることに繋がるとは思えません。一方、民間企業の参入が可能となったことで、福祉のプロとは何かが問われています。これまでの理念的なことより、サービス提供機能が問われています。サービス提供のプロとは何かが今問われる時代に入りました。にもかかわらず、株式会社のサービスと福祉法人のサービスの違いを、差別化することでの意義付けをすべき作業も行うことなく社会福祉法人は、株式会社の悪口を述べる程度の対応しかせず安穏としています。それが、人材の育成にも大きな影響を与えています。サービスの具体的内容の水準・標準化された内容もありません。つまり、キャリアアップやスキルアップを叫びながら、その水準も、ゴールも設定されていないのです。だから辞めないことに感謝する時代に入ったのです。だからと言って、辞めないだけで感謝していても事業運営が出来るものではありません。福祉は人材頼みである事から従前とは違う人を育てる方法が求められていることに社会福祉法人は気が付くべきです。もう、誰も支援してくれない時代が来ていることに社会福祉法人は気が付かなければなりません。人事評価制度も、給与などへの反映を構築することが出来ず、結果として、職員のモチベーション維持が「福祉のやりがい」に転嫁され、人事評価は根拠さえ失って、利用者支援のサービス向上に繋がるはずやその職員の成長の手助けとなるなどは達成できていないのが現実です。福祉のプロとは何かを、支援プログラムの水準や基準を明示出来ない社会福祉法人は淘汰される時代が来ています。

 

サビ管資格認定制度は、民間の趣味資格より安易だの話

 障害福祉サービスを提供する事業所には、サービス管理責任者を配置しなければならなくなりましたが、障害福祉のサービス管理責任者ほど、安易で酷い資格はありません。サービス管理責任者のことを略して、サビ管と呼ぶのですが、質は一切問われていません。資格を取得するには、決められた実務経験と資格認定の受講を受けるだけです。しかも受講内容は、講義とレクリェーションと見間違う演習しかなく、試験があるわけではありませんから、何も語らず、何も動かなくてもそこに存在さえしていれば認定されるのです。そんな資格は他にもあります。例えば、設置しなければならない防火管理者資格。講習を受講さえすれば取得できます。調理師資格、ラーメンしか作れなくても取得できます。それは、防火管理者は職場の防災のために必要な人材に防災の基礎を知ってもらい自覚していただきたいからですし、調理師は調理技術よりは食中毒により人に危害を加えないための衛生知識が重要だから、資格を与えることで認知させ底辺を広くしていくことを目標としているからでもあります。つまり、人命にも関わるこの様な資格は、取得を奨めて事故防止などの予防としての効果のために出来るだけ広く門戸を開けている資格です。しかし、障害福祉のサビ管の資格は、障害を有する人の人生を左右することもある業務なのに安易に民間の趣味の資格より簡単に取得できるというものなのです。障害福祉の現場では、業務内容のマニュアル化・標準化さえ国レベル、都道府県レベルで確立されていないだけでなく、業界としての支援水準も支援基準も示されてはいません。否定されている集団指導でさえ今のサビ管認定方式では出来ない程度のレベルなのに、求められる一人一人個別化した支援内容を計画し実施を管理監督することかできると人と受講さえすれば行政は認定してしまうのです。受講科目の構成も問題があるのですが、サビ管制度そのものにも問題があります。第1は、障がい利用者の個別支援の支援水準・支援基準がないことです。つまり、サービスの質や量の基準も示されないままに所定の障害福祉サービスの提供に係るサービス管理を行う者として説明されますが、一体所定のサービスとは何かは、受講の中では理想ばかり語られて実務としての最低限の指針さえ明示されはしないのです。明示されるのは、せいぜい体罰の禁止等々の禁止事項程度で資格を得た職員が基礎的な実務には程遠い状態で帰ってきても、有資格者配置として加算されるのです。それほどサービス管理責任者は粗製乱造されているのです。第2は、実務経験です。社会福祉法人と言っても全体としての標準サービス指針もありませんから、支援サービスは法人によって実に様々です。つまり、対人サービスとは何かを理解している法人から、虐待とは何かさえ理解していないのではないかと思われる法人まであって、同数の経験年数であったとしても、実際の職員のレベルには雲泥の差があると言えるほど知識・理論・福祉観・人権意識・障がい者観に違いがあります。にもかかわらず、法人が推薦さえすれば、何ら基礎知識について学習する機会もなかった職員であっても、現場に学習体制もなく職員を放置していた法人であっても、受講でき有資格者となってしまうのです。第3は、サービス管理責任者が有資格者の上位に位置付けられているということです。現場経験年数といっても、学びの多い法人とほったらかしにされた法人が混合している今日の状況で、基準は経験年数だけですから、基礎知識を学んだこともない方でも受講しただけで資格を得ることが出来ます。しかし、福祉の現場には、社会福祉士介護福祉士や保育士等の国家資格者所有者も珍しくありません。つまり、少なくとも福祉の基礎を学んで試験に合格した有資格者の上位にサービス管理責任者として指揮を取ることが出来てしまうのです。一定の水準が確保された有資格と、水準など関係なく参加することで得られる資格が混在することはありますが、支援水準に関係ない資格者が現場では上位に立つということが既に起きています。福祉の現場では、全く関係ない職種にいた方がいきなり施設長になっても大丈夫な業界ではありますが、少なくとも、国家資格に準じた試験を課して一定の水準を確保しなければ、現場法人・施設間の著しい支援レベルの格差を追認するだけになっています。第4は、サービス管理責任者には、不正をしない限りその業務の質や中身で責任が問われることが無いということです。障がい者の人生に関わっているのに、支援計画の責任者なのに、その中身で責任を問われることが無いということです。一端資格を獲得すれば、支援の資質レベルに関しての管理責任を問われることもありません。どんなサービス管理をしていようと書類さえ確実に用意していればそれで十分なのです。本人の能力が低くても、その事業所のレベルが低くても、利用者の変化もつかめない、劣悪サービスでも管理者として営業することが出来ます。この様な状態は、福祉業界としてのレベル向上にはなんら寄与するところがありません。第5は、あたかも施設長の次のポジションのように言われ、利用者の個別支援計画の策定・評価、サービス提供のプロセス全体を管理するとされているのですが、人材育成権も、人事権もなく、サービス内容の質・量を確保するための管理権も予算処置も確保されていません。組織の中で、何ら権限を持たないポジションなのです。現場においては、施設長とどう関与するのかと言う課題も抱え、サービス管理責任者は、請求のための、記録事務係になっています。こんな状態ですから、法人によっては、 体罰禁止や人権確保さえ唱えていれば、働きかけをしない支援や見守りと言う言い訳や、自己選択と言う責任逃れもまかり通り、本人への学習チャンスを奪うような支援さえも容認される元凶ともなっています。現場の専門性のレベルは静かに低下しており、中間位の人材は不足し、職員の離職回転は徐々に加速されています。介護保険との違いが明確な障害福祉の現場にまだまだ介護保険の仕組みが亡霊のように現れて、民間の趣味資格より安易な資格でも設置義務などとしているのは無駄遣いとしか言えないと思うのです。

 

弱者の恫喝になるとすごむ地域の話

 知的障がいのグループホームを建てようとすると、近隣の理解を得ているかと言う差別的なルールが今もあります。過去には自治会の承諾書を持ってこないと認可さえしないと行政に言われたこともあります。最近は同意書までとは言わなくなりましたが、設置の説明会はしなければならない状況は隠然としてあります。グループホームは、障がい者ばかりが住むということから近隣住民の理解を得なければならないというのは口実にすぎず、

反対者がいるという前提で後日トラブルとなるよりも事前に媚を売っておけと言うことに近いルールです。障がい者グループホームは、民間アパートの住民管理型でもありますから、結果として障がい者をちゃんと管理しますと周囲に宣言しろと言うだけのことです。迷惑施設がやってくるのだから、迷惑を掛けませんと約束して来いということです。不特定多数の個人が住む通常のアパートの方が如何に管理会社が確認していようともトラブルが発生するリスクは格段に高いと思うのですが、アパートやマンション建設で反対運動を行う人は多くはありません。ところが、障がい者の施設となった途端に、上から目線で高飛車に許可権でもあるかの如く、近隣住民が多弁になります。社会福祉法人だけでなく社員寮だったとしても、入居者に対しての入居条件や管理責任は組織が普通に堅持していますから、苦情は個人にではなく組織が受け取ることとなり、騒音問題やゴミ屋敷などと言うトラブルになることは基本ありません。ですから、今日のプライバシーなどを含めてどんな人が住んでいるかも分からない民間のアパートのから比べたら、ずっと分かりやすいアパートと言えます。さらに、施設となれば、定員とか施設設備とか決まっていますから防火設備などを含めて法令順守の建物が出来ます。にも関わらず、設置しようとすると、近隣住民に説明会をしなければなりません。近隣住民と言っても職業も生活もバラバラですから何をどこまで説明するのかさえ曖昧ですが、本音としての近隣住民が求めるメインは「安全か」です。工場でも作業場でもなく同じ人間が住むのにその人間は安全なのかと言う問いです。ですから説明会では、安全ですと宣言し、安全を担保することが求められるのです。確かに人間は不安の除去のために努力しています。つまり、安全の確保は、不安の除去に通じますから、不安は危険であり危惧の除去となります。障がい者グループホームを設置したいなら、安全を担保しなさいと言う要求の本質は、障がい者への不安と危険観です。漠然とした不安感それが嫌悪観でもあります。そんな近隣住民がいるところで、障がい者グループホームがなぜ必要なのか、何故ここに建てることになったのかをどれだけ説明したところで、嫌だなと思っている人は何かと粗探しばかりをして設置を断念させようとします。行政も障がい者の制度としてグループホーム設置を推奨するのなら、近隣住民の説明会などと条件など付けずに、法律の条件を満たしているなら許可すればいいだけのことですが、許可者の責任を問われないように話し合ってくださいとしか言いません。その結果当事者間の話し合いの末、結果として近隣住民の納得を得るために、地域に媚て利用者の権利を制限する約束をしたり、地域に利益を提供したりしていることもあります。その挙句に、設置反対の先鋒だった人が今では地域一番の理解者ですなんて美談は福祉施設にはいくらでもあります。福祉は地域の皆さんの理解と協力なしにはなり得ませんなどと手もみしながら進んでいくと、利益供応が解決の手段になって面倒見てやっているという住民と住まわせていただいているという施設の関係が固定化されて、結果のしわ寄せは利用者が支えることになるのです。説明もしないで強行突破が良いということではなく、何故障がい者がそこで暮らすと云っただけで近隣に説明しなければならないかの本質が、危険だからにあることを行政も認めている状態があることに違うと思うのです。実際その実例として、最近の関わりで自治会に事前説明に行ったところ、「家には娘がいる」「子供の通学路にある」「地価が下がる」「こんな交通の激しい狭いところではなくもっと緑の多い広いところがいいのでは」と平然と語り、障がい者は何をするか分からない不安な存在で、女・子供が被害者になりかねないと危惧する発言をします。その後に、説明会を開催すると、設計士に対して「この設計をすることに良心は痛まないのか」「敷地内目いっぱいに建物を建てて、法律さえ許せばそれで良いだろうという傲慢さを感じる」と依頼されて法律に則って設計しただけなのに悪人扱いをします。当然設置側には、「近隣住民に迷惑をかけて、ふざけていると思う。普通のアパートだったら猛反対している。あまりにも非常識だと思う。」「皆が普通に生活している場所。図示された立面図を見て、呆れている。なぜこの場所を選定したのか。駅前にも川向うの田んぼの中にも物件はあるのに。」とまで非難します。そして脅すのです。「近隣住民と上手く付き合えないと、住むことになる障害者に罪はなくても、恨みを買うことになりますよ。」「グループホームを建てるにあたって、誓約書を差し出してもらいたい」「知的障害や精神障害ということが心配。とくに、ある程度自分たちで身の回りのことができる人の方が、昨今の報道にあるような悪いことをするのではないかと心配になる。建物にも反対だが、一度にたくさんの障害者が住むことになる不安がある。」なとと録音しておきたいような言葉を並べ立てるのです。あまりに酷い言い方をしたことに、差別的なことは言わないで欲しいと言うと、今度は「被害者意識は止めていただきたい。弱者の恫喝になる。」と恫喝します。それなら、ここで言ったことをみなさんの前でも言ってみるが良いと言ったら脅し合いになりますから黙りましたら、「反対運動の資料になるから図面のコピーをよこせ」と本音を言いました。そんなことを口にする、連中は自治会だの、子供のスポーツ会だのの幹部であり地域の名士でもあるのです。だから、口では、障がい者理解も語りますし、地域の自治も語りますが、本音は、安全確保のためには、障がい者グループホームは迷惑施設でしかないということです。

 

 

これだけ一票が踏み台になっても選挙は成立しているの話。

 NHKから国民を守る党(報道ではN国と言われている)が参院選比例代表で1議席を得ました。この代表の立花氏は一票の重みを語る知識人より遙かに現実的な方法で、結党して6年という月日で、国会議員の席を確保しました。報道された、本人が話す内容はこうでした。立花氏は、船橋市の市議に「NHKから国民を守る党」として立候補して初当選しますが、1年程度で、東京都知事選に鞍替えします。知事選では落選するのですがすぐに、東京都葛飾区議に立候補、当選して1年半ほどで、今度は大阪堺市の市長選に立候補します。そして落選。今回の参院選立候補となります。つまり、選挙で当選してもいわゆる腰掛程度の議員活動と地域とは関係なく少しでも上位と思える議員の座を求めて鞍替えしていくという方法で、次には衆議院に鞍替えすると明言しています。この間に、NHKから国民を守る党としての知名度は上がり、地方選では、26人の地方議員を当選させています。その地方議員にも議員活動などは本人任せで、目的は地方議員の給与から金を借りるためと言い、「国政選挙のための資金稼ぎ」と公言しています。確かに、参院選比例区に出るには10人以上の候補を有し最低3千万円を超える供託金を準備する必要がありますから、26人の地方議員を資金源とすると言うのは効果的です。現に、今回の参院選には、37人もの候補者を立てているのに「候補者が当選するとは考えていないが」「売名行為」ができればいいと明確です。NHKのテレビ政見放送でもひたすら「NHKをぶっ壊す」と言う一つのフレーズを繰り返し続けた候補者もいました。とにかく、数を確保するためにどうすればいいかそれだけに徹して、ルールさえ守れば何でもありという作戦で、選挙区で計3・02%の票を得て、国庫から約5900万円の政党交付金を受ける資格さえ得ました。立花氏の公約は、たった一つで、受信料を払った人だけがNHKを視聴できるようにするスクランブル放送の実現だけです。これまでの政党なら、数ある公約の中のその他に掲げる程度の小さい小さい事柄です。しかし、あの高飛車なNHKの態度と選択したい候補がいないと嘆いていた人には、面白いと感じられたのかもしれません。でも投票した人の思いなど関係なく立花氏は、民主主義は数の論理ですと数を求めて、世間から非難されている議員を含めて大勧誘を始めています。過去には、三公社五現業と言われた日本国有鉄道日本専売公社日本電信電話公社の三公社は民営化され、郵政・造幣・印刷・国有林野・アルコール専売の五事業も国有林野事業を除いて民営化または独立行政法人に移管されました。その流れから言えば、NHKも民営化されてもおかしくはない組織で、契約の義務は法律にあっても支払いの義務が書かれていないのに税金並みの取り立てをしたり、契約の終了の規定がないなど問題がありますから、不愉快と感じている人は沢山います。ですから、単刀直入なNHKから国民を守ると言われると何か期待してしまうかもしれません。こんな方法でも民主主義では選挙は成立し、立花氏に投票した船橋市民や葛飾区民は、ただ踏み台にされたという事実さえ非難されることもありません。そして、立花氏は当選会見の場で早くも「ぼくが衆議院にくら替えする可能性は極めて高い」と語ったことは、政党交付金を使えば衆議院に立候補する資金は得ましたという意味になります。立花氏は、立候補すれば、NHKの政見放送で、再び「NHKをぶっ壊す」を繰り返すことが出来、勢力拡大の為の広報活動になると確信しています。立花氏に投票した人の思いなんて何も語ることはありませんし、マスコミも立花氏に何か変だという表現はしても一票を踏み台にする不適切な方法だとは言いません。ただ、NHKから国民を守る党方式で、一点集中型の不満を票に結びつけて独裁的政権を生み出し全体を不幸にしたという歴史も日本にはあります。つまり、民主主義は、話し合いや性善説で成り立っていると説いている間に、選挙と言う権力掌握手段によって、戻れない方向へ向かうこともあります。民主主義は、人類の理想ではなく、過程にすぎないことを、選挙は民主主義の理想を叶えるものではなく、数の論理で成り立っていることを、マスコミも適切に話さなければ自分たちが否定される側にいつなるのか分からないということを認識すべきだと思うのです。

学校から体育をなくした方がいいの話

 独立行政法人日本スポーツ振興センター(JSC)」の災害共済給付制度には、全国の小学校、中学校、高校、幼稚園・保育所などの児童・生徒らの約9割が加入していると言われていることから、このデーターを国立研究開発法人「産業技術総合研究所産総研)」が14~16年度の約322万件を分析したという記事が出ました。その中では、国が対策を示した後も、児童・生徒らが命を失い、重い障害を負う事故はなくせず、且つ同じような事故が毎年繰り返されていると結論づけています。記事によると、事故は年間平均で小学校と中学校で各37万件、高校26万件、幼稚園・保育所など6万件が起きており、校舎内(教室、廊下など)21万件に対し、主に運動を行う校舎外(運動場、体育館、校庭、プールなど)が68万件と3倍起きていて、学校外の(通学路など)も16万件あったということです。JSCの災害共済給付制度では、医療費総額5千円以上のけがや一部の病気に対し、4割分が支払われる方式で、大半は給付額1万円未満の軽い事故となっていますが、1万円以上の重い事故が1割強の13万件もあるということです。事故の原因についても、小学生では、授業の合間や放課後などの休憩時間に遊んでいる時が半数近くを占めて子供なのでなんとなく仕方ないのかと思うのですが、次に多いのが授業中で、その大半を体育が占めるということなのです。中身も、跳び箱の着地の失敗や、マット運動で首をひねるなどは、あきらかな人災と言うべきことです。さらに、中学、高校生になると、運動部の部活動が半数を超えて、部員数が多いバスケットボールやサッカー、野球、バレーボールなどで事故が目立ち、重い事故は柔道やラグビーなどの体をぶつけ合うスポーツとなっています。事故は、学年が上がるにつれて増え、中学2年がピークとなり、部活動を引退する中学3年で減り、高校1年で再び増え、命に関わることもある頭のけがは1万2千件以上あるということです。この状況から見ても、学校の体育の在り方に問題があることは明白です。その論拠として、体育の授業の跳び箱事故は1万5千件も(中学・高校も含むと2万件余)起きていますが、跳び箱を飛べることは社会では何の役にも立ちません。日本の体育は、中央集権国家を建設するための青少年教育の意味で用いたことが始まりで、軍事教練がその伏線にありました。その意味では既に、徴兵もないのですから、スポーツは教育ではなく、余暇の選択でいいと思うのです。体育関係者を含めて、子供たちは体を動かすことが好きだとか、体操は子供たちの人気ある教科だとか言っていますが、それは体操好きな大人の思いこみでしかありません。ですから跳び箱が嫌な子供に対しても、いろんなスポーツを知るためとか、身体能力を向上させるとか、色んな経験を積むためとか説明しますが、それは、何故算数をやるのと言われたら国語も理科もやるのと同じだと言っているのと同じでなんの説明にもなっていません。身体能力は後天的に努力しても大きく変わることはないのに、クラスみんなが見ている前で一人一人が演武しなければならない体育に、公開処刑だと運動が苦手な子が言ったことがあります。体育とスポーツは既に大きく違ってきています。体育への異なる価値観、異なる視点から見るなら、クラス30人近くの児童に、十分な指導者の確保ができないにもかかわらず、敢てリスクの高い体育を行う必要があるのかと言うことです。体育のリスクを回避する対応は、学校の集団ではできる環境にはありません。子供同士のふざけ合いや、精神的高揚、闘争心、格好、見栄えに対してケアのできる体制にはないのです。この報告書でも、事故の対策後も情報が十分に共有されず、似た事故が繰り返されており、小中学校の授業でのプールの飛び込み事故も、学習指導要領で禁じられた後なのに3年間で計42件あったとされています。体育の授業は、クラス単位で行いますから、技能や能力に応じて配慮されて、行われるのではありません。出来ないから緊張し、緊張するから失敗するのです。そして失敗が事故に繋がります。JSCが結論付けているように、学校の体育では、国が対策を示した後も、児童・生徒らが命を失い、重い障害を負う事故はなくせず、且つ同じような事故が毎年繰り返されているという事は、学校の体育の授業で起きた事故は、人災なのです。この何万件もの事故を見る限り、安全であるはずの学校の授業で障害を持つことになることは健全ではないのです。どうしても、スポーツを体験させたいのなら、地域の中にスポーツクラブを認定し、単位取得が可能なようにすべきだと思うのです。