知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

加減は教えられるのかの話

 「いい加減」というとちゃらんぽらんと思われるかも知れませんが、加減が出来るというのは非常に大事なことです。なぜなら加減が出来るようになるには、経験・体験が必要で、机上の座学では習得出来ないからです。加減が出来るようになるには、実際に実行する中で、自分の五感によって足したり引いたりすることで一番良いところを見つけ出していく自分自身の試みで、実践した本人以外には分かりません。一人一人が自分の経験値として確保していくものです。ところが、経験値としての加減は、加えすぎたり、不足し続けたりと言う失敗の中で学習することですから、加減の収得には、失敗があるという大きなリスクを抱えています。にもかかわらず、暴力・体罰などで死亡事件があると、殴る加減が出来ないことが行き過ぎとなったなどと言う評論家がいますが、殴り方の加減なんて教えられません。失敗があっても回復が簡単な物なら繰り返し行って獲得していけば良いのですが、失敗が許されない、医学や教育など人間相手の事例では、複数対応で失敗しない対応や失敗を最小にする支援や万一の場合の修復技能や方法を確保していなければなりません。例えば医学では長く研修医として、教官について実践的に学ばなければなりません。料理などは、失敗してもやり直せば良いのですから、独学でも習得できます。つまり、学習には独学で学ぶことが出来る事項と自身が実行し支援を受けながら学習の蓄積として学ぶことがあります。その中で、対人関係の加減という物は、独学ではなかなか出来ません。失敗することによって、対象者に迷惑を掛けて仕舞うというのは、対象者の人生に迷惑を掛けることになってしまいます。一人の医者や教育者を育てるために、他者の人生を実験台にすることなど出来ません。しかし、現実には、試行錯誤や模索が頻繁に行われ、ベテランと言われる人の向こうには沢山の失敗事例があるはずなのです。加減という感覚は、実践によって培われますから、実際の現場で、やってみせる、やらせてみせる、確認するという過程が必要です。しかし、ここに、感情的私情や経験の押しつけがあると受け入れることが出来なくなります。その典型的事例が、育児と言えます。育児は、加減の繰り返しです。母親と父親は実践しながら加減を学習し、失敗と成功の中で、子どもとの関係を成立します。当然母親と父親の加減が不適切で、事故や問題が発生することがあります。

 独学では学べない対人関係の加減は、支援者が必要です。過去で言う師匠であり先達で在り先輩です。しかし、時代の意識変化が大きすぎて、加減のような微妙なことなど教えられない不連続の社会が大きくなっていると思うのです。批判したり、評論したり結果に言いたいことを言う人は沢山いますが、事前に加減を教えられる人は少ないと思うのです。そして、受け入れやすい加減支援が絶滅しかかっているのではないかとも思うのです。