知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

高校野球は大人の壮大なマリオネットの話

    夏の青春と言われる高校生の全国野球大会が終わりました。連戦連勝でないと優勝できないシステムで一ステージごとに半分が負けて去っていくという徹底した一発勝負の世界で、敗者復活などということはありません。もう一つ、建前では高校生主体ですから、教師の監督は、グランドに出てはいけないとなっていますから、ベンチから学生を伝令なんて間接式の方法で指示ばかり出しても直接指揮していないという言い訳もしています。結果、、学生を、まるで将棋の駒のごとく、額面通りに行動させれば、名監督ということになるのです。どんな勝負でも、定石とか正攻法なんてことがあって、盾と矛の関係の様な戦術や戦略も昔から研究されていますから、このような場面では、こうした方が有利だという指南書もたくさんあります。しかし、双方が勝てない将棋の千日手となればやり直しになってしまう勝負の世界では、「あいこ」はありませんから、どんなに事前研究をしても必勝などということはなく、時の勢いや時の流れに応じた柔軟な思考が優勢になることの方が多いと思われます。しかもそれは、プレーする一人一人の選手の、状況や情勢に合わせて、判断する力や手段や方法を変化させ得る思考と経験値が大きく左右していると思われます。このような視点で、高校野球を見てみると、スポーツの中でこんなにプレイヤーの自主性の無いスポーツはないなと思われるのです。例えば、ノーアウトでランナーが出ると、次のバッターはほとんど、バントしようとします。これは自分が犠牲になって、得点圏の二塁にランナーを進めようという作戦らしく、訓練されているのか地方大会などを見ていてもほとんど成功しています。でもバントは成功して、二塁に進んでも、その後ヒットが出なければ残塁という結果が残るだけで、得点には至っていないことの方が多いのです。つまり犠牲は生かされることが少ないのです。

 選手が一つのゲームで打者となれるのは、3回ぐらいしかありません。その少ない打席で何故もっと自由に打たせないのでしょう。ほかのスポーツでは、試合が始まってしまうと、一人一人が繰り返し練習し習得した技能や作戦を自己判断してタイムでもかからない限りプレー仲間の動きを頼りに頑張ります。ところが、野球を見ていると、打者は、投手が、一球投げるたびにベンチを向いて確認しています。守備の場合はどうでしょう。バッターが打った球をどう捕獲するかは、他のスポーツと同じ選手に任されます。ですから成功も失敗も選手の自己責任です。しかし、得点しなければ勝てない攻撃になった途端に一球ごとに確認するという動作が加わります。その最たるものがバントです。自己犠牲にしてまで一ベース進めても得点にはまだまだ長い道のりがあるのです。長い道のりなら、一発勝負の世界なら、どんな打席でも学生の自己責任で一球に思いを込めて戦わせるのが基本だと思うのです。監督という大人が一番大事な時にいちいち口出しするのは、最も避けるべき時だと思うのです。長い練習の中で習得したものすべてを一発勝負の試合に持ち込むのなら、どんな場面であれ試合が始まれば自己責任で自分の判断を信じて仲間とプレーすればいいと思うのです。バントするかしないかぐらい選手の判断でいいのであって、マリオネットとしか思えないような大人の口出しはほどほどにした方がいいと思うのです。余談ですが、野球は、監督を頂点としたミラミットになりがちなのは、結局大事な舞台が始まっているのに、舞台袖から監督が大人が口出しばかりしているような体制だからではないかと思えてくるのです。女性部員を、マネージャーとして雑用させた挙句にグランドには立たせないなんてこともこんな環境だから出来るのだと思うのです。高校生なんだから、一発勝負なんだからこそ、一人一人が思い切りやってみるチャンスにするべきだと、久しぶりに高校野球の何校かをみて感じました。

 

避難訓練は、効果が無いの話

 法律にも、年に2回以上の避難訓練が定められていて、福祉施設では監査の時も必ず実施状況が確認される避難訓練。効果はあるのかと聞かれることがあったら、私は、はっきりと言えます、「効果はありません」むしろ、訓練で事故が起きるリスクの方が高いと思っています。災害は忘れたころにやってくるという諺がありますが、忘れたころにやってくる災害だって前回と異なっており、同じ状態など一つもないというのが実態だと思うのです。どんなに想定して訓練しても人間が想定できないような災害の方が多くて、発生時に素人が年に何回かやったことがある程度の訓練経験で対応できることはとても少ないのです。例えば、消火訓練。大きな器に入った油に火を付けて消火器を握って消火剤を発射する訓練があります。誰もが真剣にピンの抜き方から、ホースの狙い方まで丁寧に説明される消防署員に従いながら一生懸命にやるのがこの訓練内容です。でも、この訓練の会場や現場を見ればわかりますが、事故が起こらないように周りに可燃物がないように排除した火災現場では絶対ない安全な条件確認がされているのです。ですから、この訓練では消化器の操作訓練で十分なのですが、気分や雰囲気として油に火を付けているにすぎません。実際の火災では、まず熱くて火元に近づくことさえ簡単ではありません。さらに煙が迫り来ます。そして燃えながらはじけるパンパンという音は爆発につながるのかと恐怖感さえ湧いてきます。そんな火災場面に遭遇して冷静に訓練通りに対応することは誰でもができる事とは思えません。特に今日の福祉施設等は、スプリンクラーなど付いているのに、素人が頑張って初期消火などと手間取っているうちに火災は拡大してしまいます。むしろ、少ない職員で障害のあるかたや高齢者を守っているなら、安全な場所への避難を最優先で行ったほうが適切だと思います。にもかかわらず、避難訓練避難訓練とまるでアリバイ作りの様な避難訓練と消防署へ届け出たという文書を行政は求めるのです。あのけたたましい警告音、気持ちを苛立たせる警告音が出ても、イベントのような防災訓練だから我慢できるのです。実際になれば、不安と恐怖感を煽り立てるだけのイライラ御以外の何物でもありません。つまり、何のサインか理解している人には重要なサインですが、意味を理解していない人にとって見れば警戒音は、不快音そのものです。冷静に避難など出来るものではありません。ですから、工夫しているところでは、職員だけに分かる暗号が使用されているところもあります。

 秋田のアパート火災て5人が死亡し10人がけがをしたという事故がありました。ここは公的資金を使用していませんでしたが、管理人1人を含む中高年の1人暮らし25人の男性が住んでいて、精神科の救急指定を受ける病院の通院者が17人いたし、生活保護の受給者も少なくとも12人いたということです。この経営者は、経営する同様のアパートが2年前に火事になったことから、入居者の避難訓練を行ったり、建物内の禁煙を呼びかけたり、管理人を配置するなどできるだけの対策はとってきたつもりだと話、消防の改善指摘などもなかったようです。が、現実に死亡事故の発生になりました。ここで重要なのは、危険察知、自己防衛、避難の判断ができる人に有効な設備や訓練は、危険回避の判断や理解に課題がある人には役に立たないということです。つまり、避難は移動ということですから、移動することについて自ら必要だと思う人は避難するでしょうが、移動の必要性を感じなければ動かないということです。ましてや安全な移動などということを自主的に判断してはくれません。管理的に言うと、避難なのですが、一人一人の行動では単なる移動なのです。大雨であったり津波であったりしても、動作としては移動なのです。速やかに所定の安全圏に移動してもらうにはどうすればいいか、出来るだけ自主的に移動してもらえるのはどんな方法があるのか考えることもなく、単なる避難訓練をして、消防に届けていればいいというのは役人的アリバイ作りにすぎないのです。人を動かすということは、そんなに簡単なことではありません。形式的な避難訓練を押し付ける行政が変わらなければ、効果もない避難訓練に無理やり参加させられる対象者だけが迷惑をしていると思えるのです。

介護依存と非難される時代が来るという話

 来年度には、介護状態を改善すると自治体への交付金が増額されるという話が現実になりそうです。介護依存がはびこって、自立しようという気持ちが薄れ、重度化する例があるので、サービス支援計画段階から甘えを許さず、他人の集まりである「地域ケア会議」で検討して押し付けるというものです。そして、一定の効果が出たら自立支援・重度化の予防に取り組んだご褒美として、自治体に国から交付金が優遇されるということが、今度の介護保険法改正でひっそりと決まりました。つまり、介護保険では、年寄であっても訓練する意欲がないとか、リハビリを頑張って保険のお世話にならないように努力しない人には、自治体から圧力をかけて保険利用を遠慮させようとたくらみです。もともと措置という行政命令だった日本の福祉を財政危機を迎えた時に誰もが利用できる制度にすると言って介護保険を強引に導入したのですから、誰でも使える保険をどのように使おうと個人の問題です。なのに今になって、使い勝手を悪くするだけでなく、使わないように努力を強制する制度へと変わろうとしているのです。その原因は、一にも二にも財政難です。基礎構造改革で、制度を変更するときは、みんなのためだと説明して、みんなが使い始めると使いすぎだと制限するという何とも身勝手な話なのですが、制度を変えた時も財政難が原因だったように、財政という裏付けがない制度は何時も漂流することになる典型事例のように介護保険はなりつつあります。

 ごく普通の人は、介護なんか受けるより自力で生活する方を誰だって選択します。年老いてまで、他人に生活まで指示されたいと思う人はいません。にも関わらず、出来ないことがあるから仕方なく介護保険を使うと、リハビリをしなさい、重度化しないように訓練しなさい、最後は、やる気があるのかと責め立てられることになるのです。この時代ですから、本人に直接そんなことを言うと虐待となりますから、国は、地方自治体、担当者、ケアマネ、施設と言うように関係する人に少しずつ圧を掛けて、回り回って本人を委縮させる方法を使うのです。実際、福祉では地域密着などという旗を立てて、国の負担はどんどん減らし地方自治体に肩代わりさせる方向で進んでいますし、国の負担分に対しても出し渋るような状況も出ています。例えば生活保護では、窓口となる自治体に対して、認可に当たっての精査を強く求めて受給の増加を留めようとしたり減少を促すような事も行っています。確かに、生活保護では、生活保護依存症と言われるような、生活保護から抜け出そうという意識さえ失い、どっぷりと浸かってしまっているという事例もあります。しかし、介護保険というのは、保険ですから使用しないで暮らせるならそれに越したことはないと誰もが思っています。また、使用するならよりよくと活用法を考えている場合もありますが、積極的に介護保険を活用した生活を望んでいる人はごく少数だと思うのです。生活のぎりぎりまで頑張って、恥を忍んで介護保険を申請したのに、自立しろ、リハビリしろ、寝たきりになるぞと脅されるのでは、心まで病んでしまいます。介護保険に、成果主義が持ち込まれることは、やがて福祉全体にも波及し、改善見込みのない人はサービスの提供さえ拒否されることも現実になってしまいます。だからと目先の財政難に振り回されない福祉の在り方を現場が提案しても権威ある先生でないと検討さえもされないのが現実です。多くの人は、福祉に寄与したいと思っていても、福祉で利益を受けたいなどとは思っていません。それでも、年老いて加齢の中で身体機能が低下して介護保険を使うかと遠慮勝ちに決断したのに、もっと遠慮しろと言われる福祉が着実に進んでいます。

 

有給全部取って辞めてやるの話

 ベテラン職員が、他の職員に吹聴していました。「嫌なことがあれば辞めたっていいんだ」「福祉なんてどこも人手不足で働くところいくらでもある。」さらに「経験があれば御の字で、資格があればもっと良し、どこでも選び放題だよ」その通り。時代は人手不足の真っただ中、福祉施設は、選ぶところか募集しても一件の問い合わせもないと言われています。昔コメディアンのクレージーキャッツが歌った歌の一節に、「・・ひとこと小言を言ったなら、ぷいと出たきりハイそれまーでーよ」と夫婦のことを歌っていましたが、今はそんな歌が福祉の現場の現実です。福祉はサービス業となったとは言え、そのサービスを受ける利用者は、生活の必須要件で、サービスがなければ生命さえも維持できない人もいます。つまり、レストランや販売店、ホテルなどの上乗せのサービスではなく、暮らしそのものを支えるサービスなのです。笑顔は無料といったサービズではなく、人生を支えるサービスなのですが、就職先など選り取り見取りにあると云えるベテラン職員に、目の前の利用者は何に見えていたのでしょうか、恐れ多くて聞くことは出来ません。職員の、退職は手続きさえ踏めば労働法からいっても自由です。だから、福祉施設では職員の離職率はとても高くて、直接支援サービスを受けている利用者は、またかという諦めの中で冷ややかに見ています。私の失敗談である東京都の相談支援専門員の講習、受講さえすれば誰でも資格が取れます。しかし、個人では受講できず、事業所の推薦がなければなりません。事業所が雇用を保証して受講するのですから、現に働いている人や働くことを前提としているだけでなく、既に持っている資格にもよりますが実務経験が既に3年以上、5年以上、10年以上なければ受講さえできないというほど、福祉に関してはそれなりに知識も経験も持ち合わせている人たちが受講します。その講習会で一回に400人から資格を与えているのに、実際に働いている人は、資格保持者の三分の二も実務についていないのです。だから、毎年毎年応募多数で、足切りしなければならないのです。確かに、結婚とか様々な理由で継続できない人もいるでしょうが、開設されている事業所の数から当てはめるなら、順当に、そのまま就労しているなら養成がどこかで追いつくものなのです。しかも、福祉の経験者なのですからその業務も知っているはずなのです。それでもその資格に魅力がないから離職してしまうのです。例えば弁護士、少ないという要請にこたえて司法試験制度を変えました。結果人数は増えましたが仕事の量や既得権の収入は減りました。教員の資格を持つ人は沢山いますが、教員に採用されるのは希望者全員ではありません。福祉に関わる多くの資格は、資格があるなら希望は全員採用されるぐらい有効です。にもかかわらず資格の受講者の足切りをしなければならないのは、就労後にやめていく率が高いから、いくら資格を与えても足りないのです。すでになくなりましたが、ヘルパー2級という資格がつい最近までありました。この制度が出来た時は、受講者が殺到して全国で何万という人が資格を自腹を払って取得しました。そして、就労してみたら、ほかの仕事のパートに行った方がましだと資格を持っていても就労しない人ばかりになりました。

 公務員が足りないということは聞きません。大企業が足りないとも言いません。足りないのは、底辺なのです。労働条件が悪く労働環境も悪い、賃金もよくないそんな現場が人不足なのです。福祉施設を渡り歩く職員は過去にも沢山いましたし、「マンパワー不足」と大騒ぎもしました。しかし、この時も、職員の給与が上がったわけではありません。職員厚生を充実しようなどということがありましたが、結局は大した改善もないままに経過しました。その原因は、福祉の支出の大半が人件費だからです。ほとんどが税金で賄われている福祉にあっては、職員の給与を上げることは、せめて公務員並みにすることをするには、サービス費に転嫁しなければならないからです。東電は、原発廃炉の費用を電気代に上乗せすることができるそうですが、福祉はすでに上限が決まっていて、収入を上げるために何ができるということはほとんどありません。収入は安定しているのですから倒産もないのですから、人が集まりそうですが、収入を給与として分配すると、業務に見合ったような給与にはならないのです。だから、人が集まりません。人が集まらないから、少しぐらい我慢して雇用すると、体罰だったり、人の支援には向かない人が混ざってしまいます。そして、注意すると、叱ると、「有給全部取って辞めます」となるのです。職員数が揃っていなければ今の法律では事業停止もあります。ですから、そこは目をつぶっていれば、見てみぬふりをしていれば基準の数を無理やりでも確保することも不可能ではありません。でも、自分を守れない障害を持つ利用者が、見つめる瞳を逸らすことは出来ないのです。

癒しが人工音に取って代わった時代の話

音は、想像や空想によってイメージとして組み立てられます。音は向こうからやってきて、通り過ぎていきます。とどめることは出来ません。一方視覚から、音を想定することは出来ません。古代の楽器を見てもどんな音を奏でたかを想像することは困難です。日常生活の身の安全は、視覚と聴覚の総合判断ですが、睡眠している時の身の安全は、聴覚が起動して行っています。聴覚は、入力された音を、自然音、人工音、言語などと選別し、確認したい音を選択するために脳と直結し、音を認識する中で安全や注意などと判断して、身体の動きの指令を出しています。この判断となるのが経験値で、これまでにどんな音を聞いて、それはどういうことかを学習したことで判断されます。それを徹底して研究工夫したのが、効果音ということになるかもしれません。ですから、効果音も時代とともに変化しています。例えば、時代劇で有名な、馬が走るパカッ、パカッという音も、砂にお椀を伏せて鳴らすなどと聞いことがあると思うのですが、現在では、電子音でよりリアルに作られています。効果音として流さなければならなかったのは、過去の録音技術では、実際の複合的複雑な自然の音を正確に録音・再生出来ませんでしたから、人間の脳は、映像に対して思い描く経験値からくる想像音と実際の録音音が合致しないと違和感を持つことからでした。脳は、意外と視覚に左右されて疑似音の方が本物だと思いこむこともあるのです。今日の録音技術では、正確に微小な音まで取り込んだ総合的な音を録音できますし再現できる技術の進歩があるのですが、それでも人工的に作られた音や操作された音を使わないと、視覚と聴覚の誤差が感覚として出るということがあります。俳句や文学では、音は出ていない、微かしか聞こえない自然音でも、視覚映像として想像させる表現方法として、言葉でしんしんと降る雪とか、ひらひらと舞う蝶とか、さらさら流れる小川とか、の表現方法を使いますが、この表現の原点は、視覚で確認していたことを言葉にするとこんなことということですから、音もなく降る雪を見たことがあるし、蝶が飛ぶところを見たし、きれいな水の小川を見たことがあるのが前提です。しかし、今日では、そんな自然そのものに接して、音を聞くとか、音を想像してみるなどということの経験は少なくなりました。また、経験者が、風の音や水の音、鳥の声を聴き分けて話してくれるということも限られてきました。その結果、日常生活では、自然音より、人工音やスピーカーから流れる音の方が遙かに経験値として学習されていく時代となりました。

自然音も、音は、一方通行で、通り過ぎていくだけです。同様に、音楽も一方通行でコミュニケーションにはなりません。しかしその音楽が、日常生活の中にすっかり浸透しました。再生機器は、小さく携帯できることから、イヤホーンを耳に当てている人も普通に見かける時代となりました。そして、音楽を含めた人工音の経験が自然音を聞く機会より増えて、聞いた音への安心感は、人工音の方が強くなってきました。それは逆に、自然の音に対して不安を抱き、人工音の方が安心出来るかのような状況です。育った環境に自然音が多かった時には、自然音の中に、癒しを求めることもありましたが、人工音の中で育てば、名も知らぬ鳥の声や触れたこともない小川のせせらぎの音では癒されるなどという共感は出来ません。育った環境の中で聞いた音の方が、安心や情緒に深く関わっていますからスピーカーから出てくる音に依存する生活がますます増えていくように思われます。肉声よりも、スピーカーからの音が優位に立つことが起きるかもしれない時代ともいえます。

 

 

宗教の感染力の話

 宗教というものは、日常は落ち着いていますが、時代の変わり目や変革期に弾けるように広がることがあります。そしてそんな時は、考える暇も与えないような感染力を持って広がることもあります。宗教の危険な部分は、教義を最終的に突き詰めていくと同じようなことを言っているのに、それぞれは、それぞれの主張が正しくて、相手を敵として攻撃することがあるということです。哲学や思想などは、政治とか権力とかが関わってこなければ考え方として対立があっても攻撃的になることはまれで、偉そうにしているということはありますが、一般的には無害な場合が多く見られます。ところが宗教は、経典が一つでも、その中のどの部分を柱にするかで宗派の分裂ということが繰り返されたり、同一宗教の中でも、相手を攻撃したりすることが見られます。つまり、同一であることを求めることはいいのですが、同一の中身が少しでもずれると制裁などということもあります。その為、宗教集団は、時として人間性さえも否定するような行動や行為をすることがあり、ニュースになることもあります。日本の歴史でも、一向一揆など宗教集団が利用されたりもしていますし、世界史の中でも、宗教による争いやトラブルは繰り返されています。原点となる宗教では人間の生き方について指し示しているのに、どんな解釈をすればそんな行動が許されるのかというぐらい、自分たちの正当性のため相手を攻撃することもあります。そこには、原点としての宗教よりも、後世の人間が宗教という遺産を現世の自分たちの利益のために使っているのではないかという悪用とも思える利用もあります。つまり、宗教の総体をみるなら、良いことばかり教授しているように思えても、部分としての解釈では、攻撃も正当化されてしまうのです。宗派というものも同様に、原本があっても部分は、バラバラに活動し、互いにけん制しているということまで見られます。

 そんな宗教は、社会の不安や漠然とした恐怖、個人の悩みに付け込んで一気に広がるということがあります。この時の感染力は壮大で、政治権力も脅かすということが歴史の中でも見られます。人の心は、何かの切っ掛けがあると、一気に吸い込まれるように凝縮するように集合しその中に紛れ込むことで自分を守ろうとすることがあります。平穏な時期にはそんなことなど起きないと誰もが、人間の理性が止めると思っていますが、その時が訪れると誰も知らなかったような、泡沫の宗教が急激に拡大し理性ある人々が吸収されていくという事態が発生します。現代の日本では、得意げに無宗教だという人が多くいますが、実際は宗教として活動している人は沢山いて、聞いたこともないという宗教団体は数限りなくあるのです。何かの事件があって初めてそんな宗教があったんだという人も多いのですが、宗教団体はいきなり出てくるのではなく、日常地道に活動をしていることを知るべきです。そして、何かの切っ掛けで感染力を持つと一気に拡大し、個人や家庭をも飲み込んでいくのです。それは、逆に無宗教だなどといっている人の方が新鮮に吸収しやすく、何かの宗教に関わっている人の方が免疫があることとも言えます。混迷する社会にこそ姿かたちの見えない宗教は感染しやすくなります。その宗教が排他的でなく攻撃的でなければいいのですが、現実には、感染力を持つ宗教の方が、強い攻撃的志向がある場合が多いのです。感染しないためには、無宗教であることではなく、免疫をつけるためのいろんな宗教を学ぶ機会も必要だと思うのです。宗教の自由とは、学ぶことの自由だと思うのです。

 

福祉のマークは何のための話

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 上のマークは、福祉に関わるマークです。このマークをすべて答えられる人は素晴らしいとしか言いようがありません。最下段のリボンはほとんど形が同じで、色だけでそれぞれに意味があるのですが、これもすべて答えられる人は素晴らしいとしか言いようがありません。福祉のマークは、上にあるだけではありません。まだあるのです。クイズ番組に提供してもいいかと思うほど実は、種類があるのです。実際、生活するうえでも、環境や生活物質、そして、交通からなにから、マークはさらに沢山氾濫しているのです。マークは、一目瞭然という位に相手に伝わると言う事が一番で、印し、標識、商標、レッテルなどと、様々に利用されていますが、相手が理解して意味のあるものです。高価なブランドと言われる商標でも、誰も知らなければただのマークにすぎません。それが高価な価値あるものだなんて知らない人は何の認識もしません。

 福祉のマークも、みんなが一生懸命、理解と支援のために考えているのでしょうが、相手に理解されていなければ何の役にも立ちません。また、マークを周知することが福祉でもありません。障害がなんであるかを事細かに伝えなければ理解と支援が得られないというのもちょっと違う気がするのです。障害があるというマークを利用することさえも嫌う人もいます。それは個人のプライバシーでもあるからです。障害という一語で、理解と支援の得られる社会、マーク一つだけで理解と支援が得られるようになることもマークを作る前に考えてみる必要があると思うのです。