知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

上位に立つと人は悪く変わる話

    偉くなると人は変わります。本人は、変わってないと言いながら、立場の違いだとか、決定と責任が重いからと言い訳もしますし、それまではしなかった、自己主張もします。それは、上司としての自分の能力が、認められたと思ってもいるからです。そして昨日までの同僚と云っていた愚痴は言わなくなり、同調もしなくなります。だから、人は変わったと言います。ひとは、自分の評価という物を一番気にしています。少しでも、誉められると嬉しいし、非難されると嫌になります。自分を誉めてくれた人はいい人で、自分を非難した人は悪人に見えます。相手が評価として語ったもので無くても、自分の評価と思い込むことさえします。また、業務評価などでは、みんなと同じであっても、上司は俺をどう見ているのかに気がいって少しでも他者との違いを探そうとします。日本人は、序列という感覚を持っています。偉い人の間でも、序列は実在します。そしてその序列に従って座る椅子さえ決められています。どんなに無礼講でも上座が存在します。その序列に準じて、生活の中でも順位付けに振り回されます。その基準が絶対おかしいと思いながらも、自分が何位と言われると精神的に影響を簡単に受けてしまいます。偉くなると、基準も目明日も無い評価が、上からも下からやってきます。下位からは、分かってくれないという言葉が、上位からは期待しているのにと言う言葉がきます。ある市で部長職まで上りつめた元公務員は、その椅子に座れば、椅子が仕事を教えてくれると人物・能力では無くポジションに合わせていれば仕事が終わると言っていましたが、こんな事は社会では通用しません。椅子に座ったら、その椅子を守らなければならないし、よりよい椅子へと移動できる椅子取りゲームのような社会の中では、その椅子に座ったら、その椅子に見合った顔をしなければならなくなり、変わったねと表現されるのです。リーダーシップというのは難しい物で、中学生で生徒会の役員だったと言う事が、その後の人生でどれだけ役にたっかと言うと本人だけのささやかな良い思い出の範囲に過ぎません。それは、利益や損得の無い世界でのリーダーシップと利害が渦巻く世界でのリーダーシップが大きく違うからです。テレビドラマなどでは、随分酷い上司が出てきたりしますが、悪役と明確に分かるような上司などいません。あくまでも、裏でこそこそと物事は動いているのです。そして、上司になると言う事は、裏で動くこそこそに関与することになるのです。大義名分は、大きな視点で見るだったり、組織のためだったりといいますが、本当はお互いの地位を先取(専守では無く)防衛しているのです。無意識に守ることが増えてきます。そして、プライドが、その地位を捨てることは、退職となるぐらいに、降下に対しての不安を抱きます。もう一つ、上位に立つと、教えると言う役割もついて回ります。ところが、誰もが素直ではありません。教えられる側が、反発したり、教えてもその通りやらなかったり、教えていることを馬鹿にしたり、教えていることの反対の事を云ったりする人が必ずいます。自分の権威と共に、指導力が問われ、自分が晒されている気分を何度も感じます。だから、居直らなければなりません。何を言われても良い、俺は俺だと居直らなければ精神的に参ってしまいます。そして、好きで上司になったわけじゃ無いと言いながら自分の能力は上司の評価に値すると言う事を自負します。

 上司になると、孤独だと言います。仲間がいないと言います。だから組織人として働くことは大変だと言います。だったら上司になんかならないで、現場で頑張っていれば良いとも言います。そして、経験を積んだ上司が、俺もその頃は苦労したと、下位の経験を自慢話として語ります。人は自己達成目標無く上位につくと、地位を守る為に人を傷つけ、自分を守るために対抗手段に敏感になり、不安解消のためにグループを作ろうとします。自分が人に影響を与え育成する力が無いと、威張ると言う事と権力をかさに押しつける方法で無いと伝達することが出来なくなります。そんなことを自覚出来ずに行っていると、変わったと言われるのです。何のために上位につくか自分が納得する答えを持たない人が、悪く変わるのです。