どんなに言い訳しても、怒り無く叱ることはありません。つまり、教えると言う事は、教えるべく内容を、本人が拒否しても無視しても、 説得し納得させ会得させればいいのですから、通常教え方は、教える人が決めているだけです。教えて貰う側には、教え方の選択の余地はないし、希望さえも言う事は出来ないのです。義務教育では、絶対に学校の先生は選べませんから、問題が発生すれば、教える側の選択した教育方法に問題があるとされ、責任が問われるのです。逆に、家族が教師を選択出来るのなら、その教師の持つ教育方法に対しては家族が選択したことと同じですから、自己責任として処理すべき事なのです。教育内容を会得するには、教育者の言動に対して、意識を集中したり持続したり、理解しようとする努力が受ける側にも必要です。ところが、自発的にそのような行動をしない相手には、他動的に教える人に意識が向くような働きかけが必要となります。つまり、教えると言う事は、教える内容を持っていると言う事と、教えて貰いたいという意識に持っていく技能の二つを持っていないと出来ないのです。教師の免許を持っているというのは、教える内容は持っていることが証明されているに過ぎません。問題は、教えて貰いたいという意識に持っていく技能の評価は一人一人に任されていて、選択の余地は無いのです。ショックを与えて集中させるとか、強い刺激によって意識を向けさせるとかも選択肢としては、教える側にあるのです。そして、刺激が、「叱る」「笑わす」「誉める」なんであれ教える側が選択し、そのような選択をしているという情報は公示されず、選択も出来ないのが、現状です。相手に叱るという刺激を発する選択をした場合には、役者だとしても自分自身をある程度興奮させなければ、叱ることは出来ません。自己の感情コントロールのバランスのリスクを認識した上で選択しているのですから、責任は全て教える側にあるのです。もっと言うと、叱る行為は相手を威嚇出来なければ、逆効果で正に舐められてしまいますから、本当に怒っているぞと見せつけられなければなりません。自分の感情は冷静で形相や語気だけで、表現できる人は相当の役者でなければ相手に見透かされてしまいます。少なからず自分も感情的に興奮していなければ相手を圧倒することは出来ません。それに、相手に反撃される可能性だってありますし、反撃されて負けたら、権威は失墜します。反撃するかも知れないという不安は、冷静な人間でも興奮させます。叱ると言うときには、相手の事を思うと言う事よりも、状況として自分が上位にいると言うことを的確に把握していなければなりませんし、相手も同様に認識していると確認していなければなりません。何故なら、明確に組織として上位でなく、環境としても明確で無いと、叱りの内容によっては、喧嘩となります。叱り刺激は、教える内容に向かい合わせるための意識の変更ですが、叱る側も叱られる側も、軌道修正できず遺恨だけが残ると言う事もあります。叱った人が、愛情や必要性、本人の為、躾、等々言い訳をしても、叱られた方は叱られたことは覚えていても、なんで叱られたか覚えていないと言う事が見られるように、相手も興奮し、教えるべき内容から、感情的な思考に移行してしまい本来の教える環境へ移動させることが難しくなると言うリスクを抱えているのです。人は何に誘発触発されて学習するかは分からないところがありますから、叱られたという思考に入ってしまうと、教える人が100の知恵を出したとしても、受け取る側は、その1つにも反応しないと言う事になる場合も見られます。研修会などでも、講師の言葉より、知り合った人の言葉に触発される場合があるように、教える側が目的としていることとは、関係ないことに触発され学習すると言う事もあるのです。それだけに、教える側には、教えたい内容が教えられる環境作りが求められるのです。人間は集められただけでは、教えることは出来ません。だからといって叱り刺激で、集中したり維持したりが出来るとも思えません。では、誉めるという刺激なら、可能かというと、誉め方は叱り方より難しいという課題に当たります。叱るという刺激は、少ない方がよいという要求に受ける方はなりますが、誉められるという刺激は、多い方がよいという要求に繋がります。つまり、誉めるのは、満足度がエスカレートとするということです。またかというような誉めるでは、その効果は減退していくのです。多様な手法や技法を使用しなければ、刺激は弱まり、誉められたと実感すらしなくなるのです。つまり、学習効果として次々と課題をこなしていく過程なら同一の誉めでも効果はありますが、停滞時や減速時には、誉めるは、馬鹿にされたような感覚を招きかねません。叱るは、多様性は無くても叱られる側が、今日は叱られなかったとか、強い叱り出なかったとか勝手に自己防衛として良い方へ解釈しようとします。誉めるは、逆で誉められなかったとか、誉め方がよくなかったなど自己要求に見合っていたか見合わなかったかという解釈をします。そして、誉めて欲しかった自己欲求と、誉め方が合致しないと分かってくれていないという評価をするのです。
人は、誉められれば伸びるというのも事実です。でも、誉めて会得できるようにする技術は実際には確立されていないのです。誉める方が良いというのは、所詮現場を持たない評論か的な人が云うだけで、どうして良いのか継続的な方法が見つからないとされてしまうのです。だから現場では、基本叱るを通常使用するのですが、叱るは怒るなしには成立しません。叱ると怒るはどんなに頑張っても同居するのです。また、何を教えたいのか不明確な人でも上位に立っていると言うだけで、自分の自慢、自分の考えの押しつける人もいます。そのような場では、教えて貰いたいという意識に持っていく技能よりも従わなければならないという環境となります。叱りと誉めるが対局のように語られますが、叱りは怒りを含み、誉めるは相手を丸め込む含んでいるのが現状です。