知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

世論は破綻を好んでいるという歴史の事実の話

 平和とか戦争反対とか言いながら、スポーツなら人間同士が戦ってもいいんだという感覚は、結果として戦争を肯定していく基礎感覚になります。競うも戦うも同じですし、武器で競うも道具で戦うも同じです。守るというのは敵がいるという想定ですから、防衛というのは仮想敵を作るという事です。自分が正しいのに否定されれば相手を倒さなければ主張は通りません。小さな戦争も大きな戦争も戦争だから駄目だと言いながら、サッカーであれバスケットであれ国旗を振って戦わせている本性は、人間が好戦的だという事を証明しているだけです。たまたま平和な環境にいる人は、スポーツという方法で好戦的本性を満足させているだけです。戦わなければならない環境にいる人は銃を持っているにすぎません。人間は好戦的だから地球上に蔓延する事が出来たのであって非戦的だったなら6万年前に世界中に拡散して行くことなどなかったと思うのです。この拡散の動力となったのは、他人の集団であったことが重要で、他人を統一した行動が出来る様にさせる仕組みが「罰」というものだったとされています。社会性の本質は、法ではなくて「罰」とされています。ですから家族集団が基本であったネアンデルタールは吸収されてしまったのです。罰を基本に、社会集団を構成できたホモサピエンスの脳と能力では一人でコントロールできる集団が150人程度と限界がありましたから、この150人の一人一人にそれぞれが150人の集団を統率させるという方法で、社会を形成しただけです。通常説明されるときは、複数の家族が村を作り、複数の村をまとめて県を作り、複数の県をまとめて国を作っていると民主主義のように一人ひとりから集まったように説明されますがそれは権力者にとって都合のいい言い方に代えられたにすぎません。権力者にとっては、直接の部下が一定数を超えると能力に限界が来るから次の部下は間接統治としてきただけの事です。そして、この社会的集団を維持する方法が、「罰」だという事です。ホモサピエンスは、この罰の執行に快感を覚えることが出来る機能を脳に持ったことで地球に蔓延ることが出来たという事でもあります。集団になれば約束事があるというのは動物でも昆虫でもあると思うかもしれませんが、動物や昆虫には、約束事を破っても制止や排除はあっても罰はありませんし、個別に対応するだけです。しかし、ホモサピエンスは、自分に直接かかわりない事でも、「罰」を受ける人を見て、「同情せず快感を覚える」という事が出来るのです。公開処刑は、その典型で、極悪人が苦痛に苦しむほど、相手が痛みを受けているのを見て、制止することなく、当然の事と逆に快感を覚えるのです。この機能は、戦争の相手に向けられます。イスラエルは、ガザでどんなに飢えていてもハマスへの懲罰として心は痛まないのです。日本の戦前でも同じです。相手が悪人であるという広報さえ十分に行われていれば真意がわからなくても「罰を与える」という事に賛成し、実行を達成感として感じることが出来るのです。つまり、この脳の仕組みは他人の仲間同士で生きていくためには必要なものだったのですが、向かい合う集団が大きければ大きいほどに、争いを激しいものにしてしまう機能ともなるのです。他人を罰する事に快感すら感じてしまう機能は、その集団によっては、争いをエスカレートさせてしまう仕組みともなっているのです。ホモサピエンスは、この機能によって地球のあらゆる場所を独占していったのです。平和な環境にある者に、この秘められた機能が現れるのがスポーツなのです。敗者と言う罰を与える事で、「荒ぶる心情」を抑えているにすぎません。今度の選挙は既に自民党が大勢を決めたと報道されていますが、まさに戦前の日本のように、少しずつ世界の危険な情勢に怖いもの見たさの如く、スポーツ観戦の如く近づいていく選択は、ホモサピエンスがやってきた破綻を好んでいる歴史と同じです。