知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

寄り添えない校長なんて排除すべきの話

   先 日の新聞で「金払ってないから必要ないと 就学支援生徒の修学旅行クーポンを修学旅行先で配らなかったと言う校長の記事がありました。内容はこうです。『北海道余市町立の中学校が2022年10月の修学旅行で、本来は全ての生徒に配る必要がある新型コロナウイルスに関連する旅行支援のクーポンを就学支援認定世帯の生徒に配っていなかったのは、校長が旅行会社との事前の打ち合わせで「旅行代金を払っていないのだから、クーポンを配布する必要はない」』と話していたことが原因だったと言うものです。さらに記事では、修学旅行は中学3年の31人が参加しクーポンが配布されなかったのは7人で自身が就学支援対象と知らない生徒もいたというから個人情報の暴露も行われています。それだけではなく、県発行の計6000円のクーポンの配布がないことを修学旅行中の生徒に伝えた事で、修学旅行に同行した校長に、「意味が分からない」と説明を求める生徒たちに「卑下することはない。それぞれに家庭の事情があり、恥ずかしいと思う必要はない」と本来守るべき就学支援認定世帯の個人情報を学校が保護しなかったことを謝罪する事もなく「卑下することは無い」などと人権無視もいい回答をした挙句に、自身が配らなくてもいいと言った責任さえ明示せずに、的外れなとぼけた話をしたと言うのです。おまけもあって、教員がクーポンをもらっていない生徒がいる前で「クーポン、使い切れよ」などと配慮に欠ける声かけまで行っていたと言うのです。本来校長として生徒に寄り添う気持ちが有るなら第一にすべきことは教育委員会や県に問合せし掛け合うべきことを生徒に不利な決断を独断でしたのは校長自身ですから全て責任があるのに何も感じていないだけでなく保身に走っています。仮にダメなら独断で、6千円×7人=4万2千円ぐらい自腹でも用意してあげるべきです。何故ならたった一度の修学旅行での思い出作りは金に換えられないものがあると校長自身が周りに説いて回っている程重要な行事であることを認識しているはずなのですから。感じることは、校長の中に自分自身が修学旅行の引率して参加した以上、全ての生徒の思い出に責任があるという意識が低すぎて、取りこぼしが出ても家庭の責任だと家庭をさげすんでいる事が腹にあるからです。生徒に寄り添う事で偉くなったのではなく、無責任だから校長になれた人の仲間だからと思うのです。記事から感じられるのは、校長としての責任感や寄り添う気持ちが希薄すぎる人の方が、今の時代偉くなれるように出来ていると再認識した事です。私が関わった障害者の特別支援学校校長経験者も自身の保身ばかりで障害者のこと等何も考えていない人でした。退職後教育委員会に残れることを楽しみにしていた程度でした。実際最近の中学の校長の教科を見ると「体育」が案外多いのです。僭越な言い方をすれば、運動系の校長は、無意識に「使える、使えない、どこなら使える」と選別する習慣がついていると言えます。それは、スポーツでは選手の起用が勝敗を分けるほど大事だからです。お金払っていないのだから(使えないんだから)配布しなくていい(試合に出る必要はない)と同じ発想になるのです。何とかワンチャンスでも探そうという事になるには、生徒に寄り添う気持ちがなければあり得ない事で、勝ち負けの世界にいる運動系は勝たなければ意味はないのです。何故なら、部活などでよい成績を上げる事は、教員として評価得点を稼げやすく、栄光への道が開けるのであつて多くの教師が地道に実践している教育理念で頑張ったって見える成果など上げられないのです。手っ取り早く賞取のできる部活は手柄話に事欠かないのです。土産物を6千円分買う程度の事で別に大したことではないは大人の感覚で、中学生にとって6千円は大金です。大人として「一肌脱ごうじゃないか」と言う教員もいないこの学校に通学しなければならない生徒も悲しい事ですが、こんな人材しか選別できない北海道の教育委員会も情けないとしか思えないものです。