日本の話芸として落語は一人芝居の演者として芸術の一つです。人情噺を含めた物語を語る手法は古来からの宗教の説法を含めて工夫されてきました。特に一人芝居としての語りは、複数の人間を表現しますから、他者とのミュニケーションを行う仕事の人には大いに役立つ技能が多く含まれてもいると思うのです。その落語の名人の芸を先日テレビで見ていて感じたのは、食べることを音で表現する日本独特の芸は無くなるなと思ったことです。落語では、食べるシーンの表現として、有名なそばを食べるシーン、ようかんを食べるシーン、まんじゅうを食べるシーン といろいろあるのですが、どれもこれも実に食べる音であたかも食べている事を見事に表現し客が食べたいと思うほどの話芸なのですが、全く違う視点で見てみると大げさでただうるさくて時節に合わない食べ方だと言う感じなのです。外国人はそばを「すする」と言う習慣がないので異様だと言う事を聞いたことがありますが、食べ物を食べる時に音を出すことは今時は礼儀違反とされていて、咀嚼音の中でもクチャクチャ音を立てて食べる人のことを「クチャラー」などと言う人もいるそうです。咀嚼音が気持ち悪いとされているのは、現代洋風に共通していて「下品」というイメージがあるとされていてマナー講習では厳しくされる点でもあります。確かに、日本人の漫画ではお茶を飲むときに、「ずずずー」と音を立てて飲むシーンを日本風として表現しますが、コーヒーを飲むシーンで「ずずず」はないし、あったら悪人のシーンぐらいです。でも考えてみると、洋風だって昔は、手づかみで音出して大声で食べていたと言うのが普通でした。むしろ、音どころかお話しするのもご法度だったのが日本でした。つまり、マナーですから状況で変わり、音を出して食べても良い時もあり駄目な時もあると理解すればいいの思うのですが、今日のテレビの食べ物リポーターが音は出さない事からすれば音を出さないのが普通という事かもしれません。しかし、少し前には、食べ物を食べる時に音が出るのが良いとテレビ広告して大当たりしたのが、ウインナーソーセージで、「食べる物には音があるパリッ」と言う音を敢えて強調する事で大いに売れました。他にもリンゴをかじるときの音が使われたりもしています。今日のテレビでは「効果音」として「かぷっ」みたいな音を挿入されている事が多くなりました。また、口周りの動きも表現として大げさにされているのですがそれも非常に効果的で落語を盛り上げているのですが、舌打ちなども含めて過剰表現だなとしか思えない様になってしまいました。特に新型コロナの中、個食で静かに黙々と食べることが続いた人たちが見れば誇張された異様な食べ方としか見えないかもしれません。マナー講師に言わせれば、咀嚼音を立ててることなど初めから厳禁で、一緒にいる人まで恥ずかしくなりますと言って全否定されそうなのが、名人の食べる素晴らしい芸なのです。そばをすすると言うのは、落語ではよく出てくる食事シーンですから落語家の修行では重要な科目なのでしょうから、それが否定的に評価される時代が来るという事かもしれません。同様に、たばこを吸うシーンはテレビから消えましたが、扇子を使って煙管でタバコを吸うと言うシーンもどんな至芸であっても見ている方には何のことか分からないと言う事も起こりそうだと思うのです。長い修練の末に名人と言われる芸にまでなっても、その時代に適合しなければ生活の糧は得られず密やかに終焉となっていくのは世の常ですが、古典落語であってもこの話芸としての表現が否定される日がやっぱり来るのかもしれません。簡単に映像が手に入る時代ですから「一目瞭然」が当たり前の時代に、表現で映像想像させる話芸は大きな価値ある事でも、音の処理やしぐさにあっては、もう一度時代に合わせて洗練される事が必要なのかもしれません。騒音などと言う事よりも、音のトラブルが変化して、食べ物食べるのに、くちゃくちゃくちゃと言う音を出して食べたら笑われるなら良い方で、苦情となれば面倒になりますから落語としても工夫が必要かなと思うのです。