知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

スポーツから勝利至上主義を取ったらスポーツでなくなるの話

     スポーツで体罰や不祥事が起きるたびに、スポーツの勝利至上主義が非難され、関係者からはスポーツの利点が言い訳されます。そして、スポーツの勝利至上主義を否定する関係者も、勝利を諦める事ではないなどと勝利を求めた結果に勝利至上主義がある事を認めようとしません。勝敗を決するスポーツで、勝利を目指さないなんてことはあり得ないし、勝負は勝たなければ意味を成しません。実際に、勝つと利益が生まれ、負けると負債を負うと言うのが事実です。勝ち続けるものは高額な報酬や地位を獲得し、負けたものは勝った者を引き立てて消えていきます。アイドルになりたいと言うと多くの人がそんなことは一握りの人の世界だからと難色を示しますが、スポーツで身を立てたいと言えば「努力するんだよ」程度で受け入れます。そこには、評価は他人であるアイドルと違いスポーツは「努力が報われる」などと宣伝されているからです。しかし、どんなに努力しても勝者しか栄冠は得られませんから、勝つことが必要十分条件なのです。どんなことを言ってもスポーツの勝利至上主義そのものは、普通なのであって間違いではないのです。それは、勝負には勝てばご褒美がありますが、負ければ傷が残るという現実を正視すれば明確な事です。しかし、日本的事情としては、その傷が「恨み辛みに」なって、復讐する事になる事を恐れて負けた者救済としての教育的配慮があるのです。この感覚は、日本の古来からの政治にも厳然と続いている事です。天満宮は菅原道長の怨霊を鎮めるためにあるように日本では権力を頂点として、勝負で負けたものが祟る事を危惧して負けたものを称えると言う慣行が続いているのです。ですから、最近は「ノーサイドの精神」、「グッドルーザー」などと言う言葉を並べて敗者をなだめ、癒そうとしているのです。好戦的な人間は、勝負となって敗者の事など考えることはありません。自己の勝利の為だけに努力します。ですから、「スポーツを通した人間形成」では、勝敗に敏感な人間が形成されるのであって、圧倒的に強くなければ相手の事を考える人間性など持ち合わせる事などありません。スポーツを通じて「公平性」などが形成されることなどもありません。何故なら身体機能は努力では変更できないからです。一人一人の身体機能の違いは不公平に既に出来ているのです。スポーツ関係者は選手は悪くないと言うことから始めなければなりませんから、指導者が勝利に多大な価値を置いている事を勝利至上主義とすり替えていますが、選手自身が勝ちたいとしか思っていないのは当然です。そして、勝てるなら厳しい叱責や体罰等も受け入れてしまうのです。ですから、勝ちさえすれば叱責も体罰も「愛の鞭」に変身し選手は感謝を語り、負ければ「虐待」になるだけなのです。つまり、勝利至上主義がまかり通っている現場では、選手がスポーツを無理矢理やらされるなどと言う事は起こらないのです。にも拘らずスポーツ関係者は、問題が発覚すると、勝利至上主義の指導者に無理矢理やらされると選手を場外に出して指導者を悪人に仕立てることで解決を図ろうとするのです。浸透した勝利至上主義の中にいる選手は、無理やりやらされているのではなく自ら進んで積極的に行っているし、プレッシャーに勝つことこそが精神の訓練だとしか思っていないのです。何故なら「勝ちたいから」その一言に尽きるのです。スポーツには勝利以外にも価値のあることが存在するとスポーツで暮らしている人達しは、自分を正当化するために言いますが、勝利の美酒は勝利以外の価値を認めてはいないのです。勝利至上主義を否定する関係者でも「負けから学んで成長する姿勢を持って取り組んでいけば、結果的には勝利へと繋がっていきます」と言うように、結果は勝利が栄冠なのです。失敗や労苦を乗り越える貴重経験も成長する証としての勝利に結びつくのです。ですから「負けたが善戦した」は負け惜しみそのもので負けた者には何の価値もない事なのです。負けたものに恨みを残させない方式、努力は必ず報われると言う嘘、栄誉は公平ではなく最後は、利益の分配でしかない事を見えなくしているだけなのです。負けても上達する目的や意欲が生まれるのはその意欲と目的は勝利だという事を忘れるべきではありません。競争があり、勝負がある限り、ライバル意識や敵対心を高め、負けた側は自信をなくすと言うのは現実なのです。昨今のサッカーでも勝てばテレビでも大騒ぎをして負ければ非難される状況を冷静に見ているのは選手たちで、これが勝負の世界と認識しています。大人の営利がスポーツなのです。