知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

上野駅 で手配師に出会ったころの待合室の話  

 もう、50年も前の頃田舎から出てきた私は、上野駅を利用しました。その頃の駅にはどこにでも待合室と言う一角と椅子が並んでいました。列車の時間までの短時間を休んでいる人もいましたが大きな荷物を置いてゆっくりと休んでいる人もいました。そんな待合室の椅子に座ってのんびりしていると「あんちゃん、いい仕事あるよ」と手配師達に何度も声かけられたものです。もう、手配師なんて言葉も通じない時代に入りました。同じようにこの頃は、飯場や土方、ヨイトマケなんて言葉が日常生活にありました。学歴もない、知人もいない、住所もない、そんな人に、日雇い仕事を紹介しピンハネしていたのが手配師でその手配師からピンハネしていたのがヤクザで、ヤクザの縄張りとはそう言った収入源となる所でしたから手配師とトラブルを起こせばヤクザ屋さんが出てくるという事でもありました。ピンハネのピンとは1と言う事で、俗に一割以上取られると言った意味で、毎日現金払いの日雇いの日当から最低でも1割以上が紹介料として取られてしまうという事です。手配師が紹介する仕事は、土方と言われ、市内の建築現場ならまあまあで、飯場送りともなると少し大変です。飯場と言うのは、建築現場が山の中でダムだとか橋だとかになるので工事期間中の宿舎と食事がセットとされている住み込み生活となる場合が多いからです。人身売買と言うと、売春の女性と思われますが、案外労働力としての男の人身売買が多かったのもこの頃ですし、飯場送りに人身売買があったのも事実です。当時の建設現場には、重機の普及が遅れていて、スコップで穴を掘る、一輪車で生コンを運ぶ時代でしたから、大量の人力が必要でした。その一方労働環境は最悪で事故も多くありましたから、普通の人は避けたい仕事の場に手配師が送り込むのです。その為社会のアウトロー的な犯罪者や夜逃げ者、曰くつきの男たちが底辺から掻き集められていたという事でもあります。他にも債務者の返済手段としての逃げ出せない遠洋漁業に従事させるという事もあって、手配師が人買い(人身売買)とも言われることもありました。手配師は、新人には作業着から靴までそろえてすぐに作業できる支度までしてくれますが実はそれがすべて借金として計上され、高利が課されて、働いても働いても元本も返せないような仕組みになっている事もしばしばありました。飯場では、自由に買い物も出来ない拘束されたような環境の中で、日用品からタバコ・酒まで用意してくれるのですが売価は通常の数倍の物を買わされて働くほど借金が増えるという事もありました。プレハブのような住宅に、隔壁もなく、二十畳、三十畳くらいの大部屋に布団を引いて雑魚寝でした。だいたいは一階部分に食事できる場所があり二階で寝るようになっていました。東北などの出稼ぎは、毎年同じ会社で働くとか、同郷の者が集まっているとかなので、はぐれ物でないと手配師の世話にはならなかったようです。「ヨイトマケ」と言う言葉は、かつて建設機械が普及していなかった時代に、建物の基礎となる部分の土地を突き固めると言う作業で、重い鉄や石を滑車で上げて落とすと言うときの上げる作業でみんなで綱を引くときの掛け声でした。ですから、ただ引けばいいのですから技能も能力も必要ではなく、ヨイトマケと呼ばれた労働者の多くは、夫に先立たれた女性や、夫の稼ぎの少ない女性が従事するなど女性が多かったり、知的な障害者が混混じってもました。それだけに、土方もヨイトマケも日雇い労働者も、人を見下す言い方として差別用語として放送禁止用語ともなった事もあります。「おとちゃんの為ならえーんゃこーら、おかちゃんの為ならえーんやこーら、も一つおまけにえーんやこーら」なんて掛け声を子供の頃は誰もが知っていて、力を合わせて何かをするときに口から出ていたのを思い出します。日本にも、50年前には、大きな駅には待合室があって、手配師がうろうろして、今では差別用語とされるような言葉が普通に交わされている時代がありました。よく、生きるのに精いっぱいだったという事がありますが、私はそれしかなかったという事の方が事実だと思うのです。過ぎ去った時代を懐かしむ人もいますが、今から過去を比較して懐かしんでもその時代へ戻りたいとは思わないように、良い時代になったと思うのです。でも、50年後の年寄りはもっといい生活をしているなら現代も、手配師がいたときの時代と同じだと思うのです。それは、選択肢は今も多くはない時代だからです。

 もう、50年も前の頃田舎から出てきた私は、上野駅を利用しました。その頃の駅にはどこにでも待合室と言う一角と椅子が並んでいました。列車の時間までの短時間を休んでいる人もいましたが大きな荷物を置いてゆっくりと休んでいる人もいました。そんな待合室の椅子に座ってのんびりしていると「あんちゃん、いい仕事あるよ」と手配師達に何度も声かけられたものです。もう、手配師なんて言葉も通じない時代に入りました。同じようにこの頃は、飯場や土方、ヨイトマケなんて言葉が日常生活にありました。学歴もない、知人もいない、住所もない、そんな人に、日雇い仕事を紹介しピンハネしていたのが手配師でその手配師からピンハネしていたのがヤクザで、ヤクザの縄張りとはそう言った収入源となる所でしたから手配師とトラブルを起こせばヤクザ屋さんが出てくるという事でもありました。ピンハネのピンとは1と言う事で、俗に一割以上取られると言った意味で、毎日現金払いの日雇いの日当から最低でも1割以上が紹介料として取られてしまうという事です。手配師が紹介する仕事は、土方と言われ、市内の建築現場ならまあまあで、飯場送りともなると少し大変です。飯場と言うのは、建築現場が山の中でダムだとか橋だとかになるので工事期間中の宿舎と食事がセットとされている住み込み生活となる場合が多いからです。人身売買と言うと、売春の女性と思われますが、案外労働力としての男の人身売買が多かったのもこの頃ですし、飯場送りに人身売買があったのも事実です。当時の建設現場には、重機の普及が遅れていて、スコップで穴を掘る、一輪車で生コンを運ぶ時代でしたから、大量の人力が必要でした。その一方労働環境は最悪で事故も多くありましたから、普通の人は避けたい仕事の場に手配師が送り込むのです。その為社会のアウトロー的な犯罪者や夜逃げ者、曰くつきの男たちが底辺から掻き集められていたという事でもあります。他にも債務者の返済手段としての逃げ出せない遠洋漁業に従事させるという事もあって、手配師が人買い(人身売買)とも言われることもありました。手配師は、新人には作業着から靴までそろえてすぐに作業できる支度までしてくれますが実はそれがすべて借金として計上され、高利が課されて、働いても働いても元本も返せないような仕組みになっている事もしばしばありました。飯場では、自由に買い物も出来ない拘束されたような環境の中で、日用品からタバコ・酒まで用意してくれるのですが売価は通常の数倍の物を買わされて働くほど借金が増えるという事もありました。プレハブのような住宅に、隔壁もなく、二十畳、三十畳くらいの大部屋に布団を引いて雑魚寝でした。だいたいは一階部分に食事できる場所があり二階で寝るようになっていました。東北などの出稼ぎは、毎年同じ会社で働くとか、同郷の者が集まっているとかなので、はぐれ物でないと手配師の世話にはならなかったようです。「ヨイトマケ」と言う言葉は、かつて建設機械が普及していなかった時代に、建物の基礎となる部分の土地を突き固めると言う作業で、重い鉄や石を滑車で上げて落とすと言うときの上げる作業でみんなで綱を引くときの掛け声でした。ですから、ただ引けばいいのですから技能も能力も必要ではなく、ヨイトマケと呼ばれた労働者の多くは、夫に先立たれた女性や、夫の稼ぎの少ない女性が従事するなど女性が多かったり、知的な障害者が混混じってもました。それだけに、土方もヨイトマケも日雇い労働者も、人を見下す言い方として差別用語として放送禁止用語ともなった事もあります。「おとちゃんの為ならえーんゃこーら、おかちゃんの為ならえーんやこーら、も一つおまけにえーんやこーら」なんて掛け声を子供の頃は誰もが知っていて、力を合わせて何かをするときに口から出ていたのを思い出します。日本にも、50年前には、大きな駅には待合室があって、手配師がうろうろして、今では差別用語とされるような言葉が普通に交わされている時代がありました。よく、生きるのに精いっぱいだったという事がありますが、私はそれしかなかったという事の方が事実だと思うのです。過ぎ去った時代を懐かしむ人もいますが、今から過去を比較して懐かしんでもその時代へ戻りたいとは思わないように、良い時代になったと思うのです。でも、50年後の年寄りはもっといい生活をしているなら現代も、手配師がいたときの時代と同じだと思うのです。それは、選択肢は今も多くはない時代だからです。