知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

音痴の話

 あることに関して感覚が鈍いことを音痴という言い方をしていた時代があります。今でも、「方向音痴」「味音痴」「運動音痴」「機械音痴」などは時には使われますが、「痴」と言う言葉が差別用語ではないかと避ける傾向にあります。日本の神道には教義がありません。ですから昔話や言い伝えとして物語としての話はありますが、人生の哲学的な言葉や理論的なことはありません。神道は神との意思疎通ですからそんな難しい言葉は必要がないのです。それに対して、仏教は、自然との会話ではなく、人間とは何かをただ考えたものですから、人間の行動分析や心理分析をして、人間の性を善と悪に分けるという試みですから、経典には実にたくさんの人間の行動・心理分析を言葉として説明しています。それをインドの言葉から、中国で漢字に翻訳するときにそれなりに変質し、さらに日本に入ってきて当て字で翻訳された上に、僧侶が説明するときにもまた解釈の違いがありながら社会に浸透しましたから、色々な事情と過程で言葉の使い方や意味が逆転してしまったものも沢山あります。「痴」と言う言葉も、過去に、白痴つまり精神薄弱のうち、最も重度の人をそう表現したことや痴呆症など愚かと言う意味で使用されたことで差別用語とされていますが、基本は、迷う、特定の事柄に疎い事を意味していましたが、決して差別しているような内容ではありませんでした。ですから、愚かと言う意味で使用するなら、愚かという漢字があるのですからそれを使用すればよかったのです。それだけではなく、仏教は愚鈍であることを否定はしてはいないのです。では仏教用語としての「痴」とは何かと言うと、人間には根元的に3つの悪徳があって、一つは、自分の好むものをむさぼり求める貪欲,二つは、自分の嫌いなものを憎み嫌悪する瞋恚(しんい) 三つは、ものごとに的確な判断が下せずに,迷い惑う愚痴があると言い、さらに、6煩悩があるなどと説いていく中にあるのです。仏教の目的は、本人が悟りを開くことでその悟りの境地へ行くことを妨げる精神作用を3悪とか煩悩とか言っているだけで、個人の心理・行動分析にすぎません。悟りは、自分の問題で、自分が目指す精神世界に行きたいと修行するひとのヒントとして自身の悪徳や煩悩が邪魔するよと言っただけで、他者を非難する、攻撃する、卑下する言葉ではないのです。その意味では、音痴というのは、ドだかミだか迷うことがあっても、音階そのものを理解していないということではありません。簡単に言えば、愚痴は仏の教えに対して迷っていることは愚かだと言いたいだけです。お前は馬鹿だとか言うような、相手を評価したり、人格や人間性を否定したものではありません。表音文字は、言葉遊び、言葉イメージが出来る一方で、忌み嫌う言葉狩りも出来てしまいます。日本では、一人の人が生涯に名前を何度も変えることがあるように、漢字表記には言霊思考があって、時には霊力が宿ると信じている人は多くいます。そのような考え方の人からすると、漢字の持つイメージは絶大で、人生までもが変わってしまうぐらいに考えています。例えば、知的障害の前の漢字表記は、精神薄弱で、イメージが悪いと散々非難して偉い人たちが法律用語としては知的障がいとすると決めたのに、今でもが、害の字は、ひらがながいいとか、障碍が良いとか論議していますが、名前をどんなにいじっても、実態は変わっていません。結局、法的・公的支援を受けるのなら法律に規定しなければならないし、法律の用語として定義しているというだけです。法的・公的支援を必要としない人は、障害を証明する手帳も持っていません。漢字表記の、言葉の仏教的意味は、過去の様に宗教が生活に馴染んでいた時に僧侶が自慢げに仏教的説教中に出てきたもので、生活の中で宗教的言葉を引用した教訓が消えてきた今日、日常使われている言葉の中の出典は、仏教用語であることはあってもその意味で使用されること自体が薄まっています。新しい言葉は事実や実態だけを表すようになりその言葉には宗教的背景がなくなり、流行語は世相のみで表されています。表記ですから、当然言霊なんてありませんし、言葉は共有することによってはじめて意味あるものになりますから、悪いイメージの字を避け続けていくと結局平仮名やカタカナ表記が無難となってしまいます。古代中国王朝は、日本を東の端っこに住む野蛮人という蔑称として東夷と呼んでいました。同様に、国内では、関西人による関東人への侮蔑語として東夷(あづまえびす)と言う言葉もありました。漢字表記は、一つの表現にすぎないのに、イメージなんてことばかり詮索するなら廃棄してしまえばいいことです。文学としての表現でも、人を攻撃するために使われる言葉は武器ですが、ある程度の歴史ある言葉は、その言葉そのものが歴史を語ることもあります。何故その言葉を当てたのかが時代と思想と背景を考える手立てにもなります。音痴といわれて嫌だったという思いも言葉を考える手立てになると思うのです。