知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

朝日新聞夕刊、無理せず廃刊した方がいいの話

 朝日新聞の夕刊を購読することを止めました。それは、あまりにも新聞らしさを失ったものになったと思ったからです。新聞社にはどんな新聞を作るかの方針がありますから、一読者が何を言ったところで関係ない話ではあるのですが、お金を払っていたのだから一言ぐらい言ってもいいかなと、止めるついでの捨て台詞を言っておこうと思うのです。元々夕刊は、文化的側面が強いことがありますが、普段は掘り下げられないニュースの側面や人物を解説するという意味では朝刊をバックアップする地味な存在として重宝して購読していました。ところがこの4月ごろからか、紙面は、文化・趣味・インタビュー・コラム・エッセーなどの記事に埋め尽くされ、この程度ならネットでも見られる内容に変わってしまいました。雑誌並みの紙面一杯のカラー写真を乗せられても新聞の紙質なのですから雑誌のきれいさからすれば格段落ちます。雑誌なら切り抜いて壁に一枚と感じることがあっても新聞の写真を切り抜いて貼りたいなんて余程の人でなければ思いません。それでも、どうなるのかな、どうしたいのかなと様子を見ていたのですが、状況は悪化するばかりでなんだこれと言わざるを得なくなって新聞店に夕刊は止めると申し入れました。新聞の楽しみは、好きな時間に好きな時に読めるですが、それは現代では電子版の方が簡便で利便性からも、とってかわられています。しかし、紙ベースなので切り取れるという便利さはわざわざ印刷しなければならない電子版よりもあります。新聞社は社としての方針がありますから、政治的に右寄り、左寄りを初めとして、スポーツに強いとかそれぞれの特徴もあります。メディアとしても老舗で、テレビよりも格が高そうに振る舞っています。しかし、受信者は、宗教の広報誌ではありませんから一方的に記事に対して受容したり賛同しているわけではありません。さらには、受信者は、記事の比較や検証もしており新聞が真実であるとも思っていません。多様な媒体の一つとして認識しているのですが、記事としての深さや広さと言うことでは蓄積された上澄み液の様な良さがあります。しかし、朝日新聞の夕刊は、大きな会社が広報で製作している小冊子や雑誌並みの軽量薄さになっています。新聞社としての蓄積された重みが感じられなくなっているのです。この程度のことは何かで見たこと読んだことがあるな程度の内容なのです。同じ内容を話しても聞いても、その人の持っている知識や視点、そして感性によって与える影響には違いが出るものです。新聞社と言う会社では記事に対して経験値や人材により繰り返される点検によって厚みや重厚な内容になっていることが他のメディアにはない良さだと思っていたのですが、朝日新聞の夕刊は、軽量で薄っぺらくなりました。経費的にも、宅配ですから人も足りないでしょうし夕刊の刷り上がり時間・配布時間を考えたならこの内容ならなくてもいいとしか思えませんでした。変わらなければならないことは多くありますし、変えていかなければならないのが現代ですが、有り余る情報の中で、新聞社と言う看板を背負った記者が書き、経験ある上司が確認したものだから、一つの論点として柱が建っていると感じるのです。だから、その記事を起点として他のメディアを確認してみる大事な目明日ともなっていたと思うのです。ところがどこにでもありそうな記事になってしまうと、柱構造ではない、面構造の創りと同じで、役割的要素はなくなりますから、面の中の一つとしてもがかなくても、あっさりと撤退してしまう方が適切ではないかと思うのです。購読者増加は、基盤の上に乗せるものでなければ下から基盤が崩れてしまうという事を考えるべきだと思うのです。