知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

ボランティアは人の不幸の上にある話

 福祉関係者の調査で、最近5年間で何らかのボランティア活動に参加したことのある人の割合は、約3人に1人、 今後のボランティア活動への参加に興味・関心がある人は8割以上に上るという好意的な報告があります。さらに、見知らぬ人や友人・知人が困っているときに、手助けをしたいと思っている人は8~9割に上るとこの報告を信ずるなら、「お互いさま精神」「助け合いの習慣」が日本ではまだまだ健在と言えそうです。しかし、同じ報告の中で実際に行うとなると、今度は、「日常生活の中で無理なくできる」、「人間づきあいが煩わしくない」、「特別の知識・技能がいらない」、「個人で気軽に参加できる」など気軽さ・手軽さが求められて内容によって実行には二の足が増えています。また、ボランティアの目的では、相手からの感謝の言葉や評価を求め、ああ、人の役に立っているなと感じるボランティア活動を求めていることも報告されています。ですから反転すると、PTA、自治会の役員、子供会の役員などが敬遠される理由ともなります。ボランティアと言う意味では同じ無償での地域活動であっても、子供や地域の関係のある活動のように文句や苦情や押し付けられ感もなく、感謝の言葉をいただけるボランティアならやってもいいかなと思っているということです。実際、災害などのボランティアは大変ですが遣り甲斐も感謝も申し分ありません。しかし、日常の中のボランティアは、「おたがいさま」と言いながらも、受ける方は、人の世話になる、人手を借りると言うことで卑屈であったり、対応が煩わしいと感じる場合もあります。時には、他人の家庭に深くかかわってしまいそうな状況も発生するようなボランティアはどんどん衰退しています。その為、スタンプ制度だとか、ボランティアバンクなどと言うアイデアも出ていますが、ボランティアと言うイメージが徐々に変わろうとしています。過去の福祉施設や福祉関係では、ボランティアが行政を含めて叫ばれ、そんな盛んな頃は、せめて飯ぐらいとか交通費だけでもということに始まる、有償・無償論議がありましたが今では、それも聞かれなくなりました。つまり、福祉関係者が、何がボランティアかと論議している間にボランティアがいなくなったということです。盛んに論議されていた時の、実際のボランティアの内容と言えば、不足する職員のお手伝いが主流で、日本風に適切な言い方をするなら、労働奉仕の枠を出ることはありませんでした。日本では、過去から労働奉仕と言う地域活動が存在して、そのイメージを避けて名前を変えただけのボランティアは、なーんだ労働奉仕じゃないかとバレて継続的な意識を培うことは出来なかったのです。地域の共同体が共同体を維持管理していく基本は、無償の労働奉仕で、道普請に始まって祭りまで行政として賄えないことを支えてきた仕組みでもあります。行政は、国際福祉年などを含めて、福祉が脚光を浴びた時、膨大にかかる福祉の経費を賄う一助としてボランティアを推奨したのですが、行政が現業を民間業者に下請けさせる中で、単純労働奉仕は、一部にしか行われなくなりました。ですから、金が無いときに都合よく旗振りをしたボランティアと言う活動を利用する段階は過ぎたので行政はボランティアを言わなくなってきました。つまり、行政的な労働奉仕のボラは実質根づかなかったと言えます。その理由として、介護保険や福祉事業への民間企業の参入などの社会的事情もありますが、災害でのボランティアを除くと日常的なボランティアは実質低下しているのです。中には、有難迷惑な行為や押し付けや評価を求める行為があったりして、迷惑ボラなどと言われることも出てきました。そこには、ボランティアが出来たことを感謝するのではなく、感謝されるために行うボランティアが求められる時代がずっと続いていたと言えます。

 本来、日本風の「お互いさま精神」「助け合いの習慣」は、基本は宗教的教えの中にあると思うのです。つまり、宗教的な、善を積むという人間関係では、基本人間の評価ではなく、神や仏が見ていてくれれば結構なこととして、心の問題であったり、道徳心などから始まるものです。それは、どんなに自分に余裕があっても、不幸な人がいないと善は積めませんし、困っている人がいないと親切は出来ないのですから、自分がそんな人助けができることは、その機会に恵まれたことなのだということにまず感謝しなければならないということから始まっていると考えられるのです。労働奉仕と言う考えに立てば、交通費ぐらい貰ったって、弁当ぐらい出してくれてもとなりますが、どんなに希望しても、手助けを求めている人がいなければ何も出来ないという考え方に立てば、自分のやりたかったことを提供してくれた人に対して感謝こそすれ、お礼の言葉などもらうことは恐れ多いことになるのです。だから不幸な人がいなければ、ボランティアは成り立たないのです。災害で苦しむ人がいなければ、スコップを持っていても使うことは出来ないのです。同情論であったとしても、同情する対象者が存在しなければ、空論なのです。ボランティアと言う言葉を散々いじくりまわした学者も今は多くが口を閉ざしていますが、結局、感謝を求める、人のためになっているなどと言う自己満足の様な事ばかりのボランティア観を残しただけに思うのです。人の不幸があるから、自分が出来ることがあることに感謝し、たとえ言葉であっても報酬を求めない関係がボランティアの源流だと思うのです。