知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

スポーツ利権がある限り選手は道具にすぎないの話

 あるスポーツの指導者の話に、過去のこととして『子どもたちに勝たせたい』ではなく、『俺が勝ちたい』でした。自分が認められたくて、目の前の結果にこだわっていました。と言う告白があります。実際のプレーをしていない応援団だって初めは「勝たせたい」と応援していても、「勝ちたい」に感情移入するから勝敗に拘り時には行き過ぎを起こします。この度の日大アメフト部の問題もそんなことの表れで、私からするとそれ見たことかのスポーツの話しとしか言えません。結局、スポーツに関わる大人は、勝つことで、良い指導者という肩書を貰い、「勝利の喜びを与えられる」ことで、良い指導として尊重されるだけでなく、監督、コーチなどとして生活の保障にも繋がっていきます。どんなに良い指導者であっても、勝利しなければ立身出世どころか、評価もされないのです。

確かに若者を含めて競技者は、一生懸命かもしれませんが、裏方をしているはずの大人たちは、スポーツに対して純粋でも、懸命でもないのです。マスコミを含めて舞台の派手さは強調しますが、舞台裏でスポーツを金もうけの一つとしていることはマスコミも変わらないのです。日本では、スポーツは、企業や大学の広報の一つに組み込まれています。その理由は、スポーツは金が掛かるからです。野原があれば出来るものではなく、着衣から道具そして、練習場まで、金銭が掛かるのです。選手は手弁当で道具まで自費で行っていたとしても、練習する会場は、学校以外なら、公的な体育施設、企業の施設などどこかに所属していなければ確保できないだけでなく、既得権のように公的な施設などは団体登録組織が確保していて一コマも渡す気などないのです。そんな、利権や既得権の温存と継続を図っているのが大人なのです。ですから、現状ではスポーツは、どこかに所属しなければ練習も出来ないし、所属先はスポーツを維持するためにの営業の一手段の地位しか与えていないのです。どんなに、美辞麗句を並べても、現在の日本のスポーツは、根底に営業があり、金集めが出来なければ維持していけない都合があるのです。そのしわ寄せが、学生を道具のごとく手先にして悪事を働いてでも勝たねばならないということに繋がっていくのです。そして、こんな大人に限って、選手の前では、サムライを語り、何かあれば俺が責任を取るからと言い続け何かあったら責任なんか絶対に取らずに逃げまわりほとぼりが冷めるのを待つ大人なのです。そんな大人は、嘘も、つきます。

現代のスポーツは、世代交代が早く、選手寿命は短いと言えます。そして、情報社会の今日、どんな指導方法もみんながやっていて、残るは才能ある人材の確保に尽きるのです。人材確保には、勝ったという実績か、勝てる監督がいるということが、今や必須条件となってしまうのです。勝てない指導者の下には人も集まらないだけでなく、同じ世代の中にいるごく少数の才能ある選手を獲得できるはずもありません。勝てなければ、監督として認められないし、その上層組織上層部にひいきされる様にならないと、選手を終えるときには、競技を終えることになります。スポーツは、教育的だという評価を、利益を得ている大人が、大々的に宣伝していますから、誰もが教育的とぼんやり思い浮かべますが、決して学校の体育の延長線上にスポーツはないのです。プロスポーツは現代の賞金稼ぎで、賞金を出すスポンサーなしには成り立たない状況ですし、スボーンサーが付かなければ会場の確保も大会の運営も出来ない状態なのです。その確たる証拠として、オリンピックでさえ競技のベストチャンスに行うのではなく、テレビ放映の時間に合わせていることでもわかりますし、金がもうかる方へルールまでもがはいつも変わっているのが日常です。見世物スポーツは、勝つためにドーピングを含めた、ずるも醸成して健康を害する選手もいます。これは、現代スポーツビジネスが利権とお金のために、人間の欲や快楽を満たす要素を巧みに取り込んでいるからです。利権が発生する要素をたくさん持っている現代スポーツビジネスは、戦っている選手の後ろで、大人たちがごそごそとうごめいて、名声と金がそこにあると大々的にアピールするのです。国技とも言われる相撲で“土俵の鬼”といわれた名横綱・初代若乃花は「土俵の下には銭が埋まっている」という名言を残しましたが、土俵の下に銭を埋めているのが大人であることも知るべきです。選手は最高に努力しているのですから本当は強いチームなんてぞろぞろいるのでしようが、勝敗を決めなければ現代ビジネスススポーツは成り立ちませんから、大人たちはそこまで介入し、プロジュースしているのが現状です。大人のために、選手を競わせ、壊れたら次、日大の問題は、スポーツビジネスの実態が見えただけだと思うのです。