知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

慰安婦像と偶像崇拝の話

 キリスト教イスラム教も偶像崇拝を否定しています。仏教もはじめから仏像があったわけではありませんが、伝搬する過程で国家との結びつきもあって、偉大さの強調として建築物と共に仏像も信仰の対象として発展しました。日本でのもともとの祖先崇拝は、自然が対象で、山だったり海だったり岩だったりと元々あるものですから作る必要はありませんでしたし、形も千差万別で形にするということ自体の発想はありませんでした。ところが仏教が入ってきて、伽藍などと格好つけたので、ご神体の前にお参りする本殿などを作っていますが、言霊というように魂が宿っていることが大事であるというのが日本の信仰にはあります。ですから、葉っぱ一枚でも魂が入っていれば信仰の対象であり、壮大な仏像でも魂が抜かれていればただの物体となるのです。そうでなければ恐れ多い仏像の掃除などできません。

 日本の偶像崇拝の基本は、魂の宿るものは、畏怖して丁重に扱いお祀りするということになります。韓国作者が慰安婦像だと言っている慰安婦像が今は世界に40体ぐらい配置されていると言われていますが、偶像崇拝の習慣のない国では単なるモニュメント的に思われてその作品の出来栄えが評価の対象となる程度の感覚だと思うのです。しかし、日本的発想での偶像崇拝の習慣からすると、あの像を見て、慰安婦の像とも呼べず少女の像と言っているのですが、少女の像ならどこに誰が設置しても逆にいいではないかとなってしまうと思うのです。慰安婦の像だと作者が言っても、日本的偶像崇拝の感覚からすると御霊を慰め慰霊したいと思いますから、戦いの前線に設置するなどということはありません。しかし、韓国では、あの像を嫌な奴の前に置くことが抗議であり戦いであり効果があると信じているようです。私は、日本的感覚で偶像崇拝のことを考えるなら、撤去する事より、花をたむけ慰霊することが日本的ではないかと思うのです。実際、政治とは別に戦争の中で性的犠牲になった人は大勢いるのですから、慰霊することは必要です。しかも、作者が韓国の人で、韓国の人がそこに設置したのなら、政治とは引き離れた偶像に関する日本の感覚で一礼することは大事だと思うのです。なぜなら、日本的感覚では、魂のこもったものを戦いの道具にすることは、冒涜で、守護することが美徳だからです。