知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

豚の丸焼きで「命」は考えられないの話

    東京農業大学の学園祭で、7年ぶりに豚の丸焼きが復活したと報道されました。学園祭での豚の丸焼きは50年位の歴史がありましたが、姿形が明瞭で、かわいそうなどの声で中止となっていたのに「命を食べる」という大義名分を作ることで大学を説得し実現したと言うことでした。この企画を長年行ってきたのは、農大の探検部で、「 世界は広い。行こう好奇心のままに。風のふくままに。世界を探検しよう」という活動をしています。つまり、日常的には「命」を考えたり「食物」を考えたりしているわけではありません。それでも、姿形を見たならかわいそうと言いながら、加工された豚肉を食べている人に「自分たちは命のあるものを食べて生きている」という事を考えて貰う機会になると実行したようです。確かに多くの人は豚肉を食べていますが、屠殺から解体までを見ることなどはありません。だから豚の原形から焼いて口に入るまでを見せる手段として「豚の丸焼き」の調理を通じて、「命を食べる」と言う事を考えたいと言い訳するのですが、人気のイベントを復活させたいだけではないかと私は思うのです。それは、「命を頂く」という言い方で誤魔化していますが、実態は「殺す」と言うことにあるからです。死体となった家畜は既に命を奪われて自ら動くことはありません。自ら動いている者を動かなくさせる「殺す」ということによって「命」つまり生命体では無く物体となってしまいます。その物体を如何に見世物としても、同情心はかき立てても「命」を考える事は困難だと思うからです。もし、この企画を実行した学生が、屠畜場を見学することが出来たならそのことが理解出来ると思うのです。

 実際、日本では家畜と言っても自分勝手に屠殺し解体して販売することは出来ませんし、病気で死んだ牛や豚の肉を食べるのは禁じられていますから、生きた動物を殺すことによって食肉は確保されます。屠畜場法により、牛、馬、豚、ヒツジ、ヤギの5種類の家畜はここで屠殺・解体されます。屠畜場は、300カ所強あり公設は約4割で、昔は屠殺場などと言われていましたが、今では「食肉処理場」「食肉センター」などとも言われています。働く人は、大変な負荷を持っていて、食肉を食べられなくなる人も多くいます。屠殺は、過去にはハンマーで鼻の頭を強打する方法でしたが、家畜の悲痛な叫び声や悲鳴のような叫び声が、残酷だということで、電気ショック法を採用するようになり、今では頭蓋骨に1センチほどの穴を銃で開け、牛を失神させ、脳への酸素供給を断つノッキングガンが採用されています。失神させると直ぐさま大動脈が切開され放血することで即死状態となります。これは、安楽殺という動物福祉の観点とも言われていますが、即死させてすぐに血抜きをしないと血が肉の中に残って不良品になったり、家畜が暴れたりすれば危険で商品価値も下がると言う人間の都合の方が大きいと私は思っています。それでも、吹き出す血液は、生きていた体温で大量に出てきますから、辺り一面に血の匂いが広がります。すると家畜といえども、順番待ちさせられている生きている家畜が危険を感じて懸命に厭がったり、鼻にかけたロープを振り切ろうとするなど不穏な行動が見られます。それだけで無く、即死と言っても、心臓や脳の機能が停止しても反射などは残っていますから、両足が震えていたり、歩くような仕草を繰り返す脊髄反射も現れます。剥がされた皮なども、収縮などによりピクピクと動いて見えます。少しの血液を見ただけでも卒倒しかねない最近の若者がみたなら、言葉も出ないほどに、床が赤くなります。日本では、殺人現場の写真もそうですが、穢れや畏れが想像されるような場面は、世間一般の目には触れないようにしている国でもあるのです。死と直面する、血液が流れる場面は誰も見たくないのです。それほど、血に対して感覚が違うのです。ですから、血さえ流れなければ、命が尽きていくことを楽しむという食べ方もします。例えば魚の活き作りと言えば、刺身となった魚の、しっぽがぴくぴくしているのを見て、今絞めたばかりで新鮮だと言いますが、実は水槽に泳いでいた鯛を今殺しましたと言う事でもあるのです。イカやタコが丼の上で動いているのを楽しみますし、エビや貝を生きたまま火にかざして息絶えるのを見て楽しむこともあります。踊り食いなどと言って食べることもあります。しかし、殺すという事が実行される血が流れるような場面は避けられているのです。だから、命を考えるなら血抜きされた豚の死体では難しいと言っているのです。人間は生きるために魚を殺し、動物を殺し、植物の命を断って生きています。そこには、生きたくても生きられない命があり、一人の人間が生きていくために、殺される命が無数にあると言う事ですし、生きたかった無数の命を「殺す」事で成り立っていると言う事です。だから、食べ物を残さないのであり、無駄にしないのであり、捨ててはならないのです。学生は、ほとんど加工されて、すぐにでも食べられるようにされた肉ばかりが出回っていると言いますが、死体となった子豚は既に加工された物なのです。言葉に酔ってはなりません。「命を頂く」などと言うきれい事ではなく「殺す」事によって食肉になるのです。昔の屠殺場は、配水管から出てくる血がどぶを赤黒くし、異様な臭いがして、カラスが群れて、窓ガラスの向こうでは、縛られたり、繋がれたりした家畜が泣き叫んでいる前で、次々とハンマーで殺されていました。命のことは言葉で誤魔化してはならない事なのです。命を頂くとか、命を食べると言うことの前に、生きていたかった命を殺すことで食べるのであり頂くのだと言う事を考えるべきだと思うのです。