知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

商品としての葬儀の話

  最近の葬儀は、葬儀一式という商品となってきました。主催者は、死者の親族ですが、葬儀一式の台本も、演出も、配役も全て葬儀屋さんが行っていますから、そこでは、死者を弔い、死者の世界へ導く、導師いわゆる僧侶までが配役の一人になってしまいました。本来の主役は、死者ですが、死者は何も出来ませんので、死者に代わって親族が、来世へ向かう死者の為に、僧侶に導いて頂くのが葬儀ですから、僧侶が、演出家であり主役でした。それは、宗教活動でもあって、教団として結びついていく広報活動でもありました。檀家としての在家信者に対しての布教活動でもありました。ところが、葬儀が商品化すると僧侶は、ある場、ある幕、ある場面の登場人物に過ぎなくなり、参加する人々にとっても、誰であるかは全く関係なく、それなりの服装であればCDで読経が流れても無関心となりました。つまり、死者を弔うという感覚は失われ、儀式として消化するだけになりました。そうなれば、商品としてセット内容や単価、そしてサービスが選択の対象となりますから、ネットで買える葬儀になっても不思議ではありません。

 多くの教団は上納金制度で成り立っています。儀式は資金源の一つです。明朗会計などと売り買いされるものでは無いといいながら、葬儀があれば、末寺から上納金が入ってくる仕組みは今も生きています。良いことは神仏の力で、悪いことは信心が足りないと言い出す宗教にとっては商品化は嫌なことかも知れません。でも、宗教の成立の歴史や歴史の中で何故、人は信じてきたかを少しだけでも知るなら、人間と宗教は、人間ていいなを知る手がかりとなると思うのです。