知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

日野イオンモール多摩平の森リスクマネージメントは、いい加減だの話

他の用事で予約の時間まで余裕が有ったので近くの日野イオンモール多摩平の森で買い物でもと立ち寄りました。ところが9時30分ごろについてみると、8時30分から営業しているのはスーパー部門だけだったのです。周りをぐるりと歩いてみたのですが、設置してある椅子は全て待ち人が既に着席、困ったなと歩き回った末に、西方入口の外にベンチが有ったので20分程度だからと座りました。そこでは、フリーマーケットを開催する様でワンタッチテントが5-6件立っていて慌ただしく準備する人がいました。ぼんやりと暇に任せて見ていたら、その広場の中に駐車していた車が動き出したのです。こんな中に車を入れるのも非常識だなと思って車を見ていると、なんと、広場に並走する歩道に出て、交差点横断歩道の前の歩道に停車し、横断歩道が青になったら横断歩道に侵入して左へ曲がり車道に入っていったのです。しかも横断歩道には渡ってきた4~5人の人がいたのに向かっていったのです。時間があったので調べてみると、この広場は交差点に西と北の2辺が接していているのですが、イオンモールの敷地には車止めポールが立っていて交差点周辺の道路からの侵入は出来ない様になっているのです。つまり、公共の歩道を走行して、交差点の横断歩道からしか入られないし出られないのです。それは、設計の意図としてもこの広場に車の侵入は想定していないという事だと思うのです。

 
 

   

 このイオンモール多摩平の森は、駐車場を950台分持っています。路上駐車があれば地域からの苦情にもなりますからこの広場にも侵入できない様にしていると思われます。にも関わらず、歩道を走行して横断歩道から抜ければ出入りが出来るという事自体を裏技としているのなら、詐欺みたいなものです。原則歩道を車が走行する事も駄目だし、横断歩道の青で横断歩道に侵入する事は常識外の事です。特に、スーパー部門は8時30分から営業しているのですから店は開店しているのと同じです。運転者へフリーマーの主催者は、フリーマーは2階や3階の営業と同じ10時からなので、10時までは車の搬入が出来ると言っていましたが、企業の常識として、一部でも営業していれば営業中で、客にすれば開かれた出入り口は、自由に出来ますから、まだ営業開始していない店舗を基準に業者搬入が出来たら接触事故を含めて危険です。そんな簡単なリスクが考慮されない程度なのかと疑わざるを得ません。ですから、どうしても搬入をしたいと言うなら8時30分前に行うべきで、スーパーへの買い物客が出入りしているところへ車で搬入させることは危険と考えるべきだと思うのです。この時、一応、フリーマーの担当者が誘導はしていました。しかし、今時の道路工事の交通整理でも誘導者であることが分かる服装にしていますし誘導灯を持ったりして周囲に何をしているか分かるようにやっています。ところがここでは普通の服装の男女が車に向かってだけ指示しています。そこのけそこのけ車が通るで歩行者に声掛けもしません。そこで叫びたくなったのは「イオンモールの担当者出てこい。これを見ろ。人任せにするな。自分の目で確認しこれがイオンのやり方だと言ってみろ」でした。2台目はもっと酷くて、バックすることが出来ない運転下手なのか、自分が座っているベンチの前を平然と走行し広場を一周して、横断歩道から車道へと抜けていったのです。イオンがフリーマーからどれほどの出店料を取っているのか分かりませんが、販売をしているという事ではフリーマーだろうと客からすれば商品の搬入にすぎません。搬入者からすれば車から降ろしたところが売り場ならそれは結構なことかもしれませんが、売り場迄車で乗り入れなければならない事などないとも思うのです。駐車場に止めて台車で運べばいいだけです。有名デパートでは客が乗るエレベーターに搬入品をのせると叱られるぐらい客に配慮しているのに平気で車を乗り入れさせる感覚は最低です。最近では、年寄りを含めたブレーキとアクセルの踏み違いで事故が起きています。フリーマーの運転手が仮に暴走したら人の中に突っ込むことになるのです。横断歩道で事故が起きたらどうするつもりですかと言いたいんです。野イオンモール多摩平の森リスクマネージメントが出来ていないとしか言いようがありません。

 

 

苦しんで死んでくれと言えない被害者の話

    絞首刑は「残虐で非人道的で違憲」と死刑囚3人が国を提訴したと言う記事が掲載されました。原告の3人は2000年代以降に刑が確定している死刑囚で、絞首刑では死亡までに時間がかかることで苦痛を与えるほか、「遺体が激しく損傷する恐れがある」と主張し、「必要以上に身体的、精神的な苦痛を負わせている」と代理人の弁護士は話しました。しかしこの事に関しては、2009年に大阪市此花区のパチンコ店で起きた放火殺人事件の刑事裁判で大阪地裁判決で「死刑囚は多少の精神的・肉体的苦痛は甘受すべきだ」として憲法に違反しないと判断し、最高裁でも確定しているとされている事です。それに、日本では一人の殺人では死刑にならず複数の殺人や凶悪な犯罪の複合でなければ死刑にはなりません。逆に言うとこの三人の死刑囚に殺された複数の被害者がどれほどの苦痛を受けて死んでいったかを思えば、遺族だって「同じ目に合わせてやりたい」が普通の感情としか言えません。こんなことが死刑前の抵抗として出来るのも、裁判中は死刑執行を行わないと言う慣例があるからだと思うのですが、すでに死刑は確定しているのに死者を弔うどころか自分の延命の為に起こした裁判が、死刑のやり方が苦しいから嫌だは何とも自分勝手としか言えないと思うのです。三人の死刑囚が、被害者をどのように殺害したかは3人の犯した事件内容が明示されていませんので分かりませんが、憶測だとしても、誰も死にたくなかったと思いますし、苦痛なく死んだとは思えません。被害者は、突然死に向かうことになった事に、精神的にも肉体的にも相当の苦痛の中で死んでいったとしか思えませんから、仮に死んだ被害者に聞くことが出来たなら、自分と同じ目に合わせたいと思っているとしか思えません。であっても被害の自己救済は法制上認められていないだけでなく、法治国家は加害者の方が法に守られていると言う事が起きているのです。日本の法制度では、被害者が権利を侵害されたとしても国家権力以外は処罰できない様になっています。つまり、被害を受けている事に対して自己救済として相手と渡り合う事は禁じられていて、被害者にどんなに力が有ろうと、自力で被害救済をすると逆に処罰されてしまいかねないという事です。テレビドラマでも、復讐に燃える被害者に対して刑事が裁きは国が行うと説得するのはこのためです。この国家権力による裁定という事には長い歴史があって法の制定と法の執行が国家権力の基本ともなっています。それはそれで意味のある事なのですが、今日では加害者が居直るなら加害者に有利な場合が多いという事もあるのです。つまり、法律に守られていると言うのは実際は社会秩序であって個々人の被害者救済ではないというのが法治国家なのです。刑事では、冤罪と言う大きな課題がある事から加害者に対して慎重であることは当然です。死刑囚にあっては、執行までの期間の心理的圧迫や家族以外には面会できない事などの様々な論議はありますが、死刑の方法は密やかに厳かに儀式として行われていると言うことを信じるしかありません。過去ならば、見せしめとして公開したり、出来るだけ苦しめる方法がありましたが今は死刑の実態は公開されてもいません。ですから、絞首刑により実際に意識があって苦しむことがどれほどなのかも分かってはいません。当然裁判を起こした三人の死刑囚も弁護士も推測で苦痛だとしか言っていません。ですから、他者に過大な死と言う苦痛を与えていながら、根拠もなく自分が苦痛だと訴えるのは、ただ延命を図っているとしか思えないのです。この事件の被害者の遺族は「苦しんで死んでくれ」と言わないと思いますが、加害者の身勝手に同意する事は無いとしか思えないのです。刑罰そのものが犯罪防止の抑止効果として今日では拘束する事で見せしめとしています。更生指導と言う面を強調もしますが、それは犯罪者個人の事で、再犯率からすれば、犯罪者個人に対しての効率は著しく低いものです。ですから、刑務所に入れられるという事での社会的犯罪抑止効果が効いているだけで、被害者に対しての救済的内容は基本ないという事です。つまり、国家が被害者に変わって復讐してくれるわけではないという事が明確なのです。それどころか、被害者が、犯罪者に対して復讐させない方法として拘束して守っているという事も出来ます。死刑囚の三人が集まって話し合うなんてことは出来ませんから、正義の使者のような振る舞いをしている弁護士が主導しているとしか思えませんから、死刑囚までも利用して何をしたいのか疑いたい裁判としか言いようがありません。

金、金の宗教は経済テロと同じの話

 信教の自由を守る為に宗教法人の調査が出来ないと言うのは、ただの言い訳でしかありません。信教の自由の一番大事な事は「宗教の押し付けが国家によって行われてはならない」という事で宗教法人さえ確保できたなら治外法権になるという事ではないのです。簡単に言えば、明治から太平洋戦争で敗北するまでの間、国家神道と言う宗教ではない宗教統制が行われたことに対する戒めですから、本来は国である権力によって宗教の統制をしてはならないという事であって、教祖の悪行を放任する為ではないという事が分かっていない、何かの信者なのかと疑われるような法学者に振り回されるべきではないのです。江戸時代は、宗教と政治を分離して宗教を利用していましたから、それを悪用して博打禁止の江戸時代に寺社奉行の管轄だから町奉行は手が出せないと、寺で博打を行って寺銭として所場代稼ぎをしていました。同様に、憲法で宗教が保証されているので宗教法人が寺銭稼ぎの如く個人から寄付を強要していることが取り締まれないとしたなら、被害者は法に守られる宗教にはかなわず、奴隷並みに扱われしまうのです。法の悪用は、法に守られて行われると言うのが実態ですから宗教で金銭が絡めば疑るのは当然だと思うのです。何故なら、宗教では、救われる事が主なのですから、「心や精神」そして「哲学」の問題だから権力に支配されない様にしているのに、悪用する宗教が、「心をお金で買える」としていること自体が悪としか言えません。神様は、「お金」を必要としていません。金銭欲は人間にだけ存在する欲望でしかありません。そんな事誰だって理解できますし、誰でも分かる事です。だいたい神がお供え物を要求することなど無いと考えるべきです。神は全てを持っているのですから人間だけにしか通用しない金など神には何の必要もありません。古来から人間は沢山のお供え物を神に捧げてきましたが、供え物を神が持って行った記録などなく、結局日本では、供食と言って人間が食べてしまうし、供え物は、権力者が持って行ってしまうのです。それが、教祖でもあるのです。つまり、金を欲しがる宗教は、人間的すぎる欲望の機能しか持ち合わせていない組織でしかないのです。そんな組織から国民を守るのが行政であり法の支配なのですから、金・金・金の宗教団体など認めること自体が不作為と言えるのです。そして、偽物不法ななりすまし宗教は、騙しのテクニックとしての不安をあおる、救いを求めさせる、幸せを売りつけるそれを信教の自由と言う盾に守られて堂々と行っているのが、カルト宗教ともなっているのです。昔から、坊主丸儲けと言うように、人間の弱みに付け込んで宗教という化け物が加害者となった事件は数あるのに「信教の自由」などと、行政がのんびり構えていると政治家までがいつかは飲み込まれてしまうという事が、今回判明しました。金をむやみに集めることが教祖の日常なら、その金は政治不正に向かうし、他者排除に向かうし、反社会に向かう事は必定だという事も、オウムでも証明されましたし、統一教会でも証明されています。これらの事を考えれば、金にしか興味のない宗教など経済テロとしか言いようがないと思うのです。

山が無くなる採掘はSDGsより深刻だの話

 石灰岩は,主に大昔の生物の殻などの炭酸カルシウムが堆積してできた岩石のことで、過去にはサンゴ礁だったという事であります。海で堆積してできた石灰岩地殻変動によって隆起して出来た山や台地には鍾乳洞が形成されることもあります。石灰岩は、現代の人類にとって最も身近な岩石でコンクリートと言われる建築資材はあまりにも多く使われています。しかも日本では輸入する事がない唯一の鉱物とまで言われており、全国では200以上の石灰石鉱山が稼動していて、年間約1億4千万トン生産されていると言われています。採掘方法は、炭鉱と違ってほとんどの鉱山で露天採掘と言われる地表から渦を巻くように地下めがけて掘っていく手法ですから山が無くなっているという事なのです。気候変動の大きな要素は空気の流れです。暖かい空気が流れを変えたり、冷たい空気の流れが変わったりすることが気象を変化させています。ですから、そこに山がある事で海で湿った空気が雨や雪となる気象が現れたり、山を越えた空気がカラカラになり風となって吹き抜けるのが、空っ風だったりと、空気の流れは天候に大きな影響があるという事です。その山が無くなれば、空気の流れは大きく変わるのに、日本では、石灰岩採掘の為に全国で、山が無くなっているという事が知られていません。どれほど山が細っているかは、身近のコンクリートの分だけ採掘されているともいえるのです。コンクリートは過去には、川の石を混ぜていましたが今日では、川の石を採石する事は出来ません。その為、山石と言ってここでも山を切り崩しているのです。一方、気候変動の対策として大規模な植林を宣伝していますが、この人間による自然再生対応は、森林の成長には繋がらないという事が証明されています。例えば、2012年フィリピンのルソン島で行われた植林活動では、1時間で100万本以上のマングローブの苗木を植林し、ギネス世界記録に認定されましたが、その8年後の調査では、植林したマングローブのうち生存しているのは2%未満で、残りの98%は枯死または流出したと発表されています。植物学者は「このような植林の失敗は珍しいことではなく、頻繁に起こる出来事です」と言い、2019年にトルコ全土の2000カ所で約1100万本の木を植える全国植林デーの一環として行われた植林活動では、2カ月後には植林した苗木の約90%が枯死したと言います。大規模な植林が失敗する理由では、「間違った苗木が間違った場所に植林される」「植林された苗木が放置されている」など呆れるような理由なのです。その原因は、植林プロジェクトでは、どれだけ植えたかが重視され、植林した苗木の生存率は無視されているからとも言われています。つまり、それだけ大量の植林が出来る土地が放置されていたのは自然林としての、植物の成長が出来ない荒野だったのですから、まず苗木が育つ土地にしなければならないという事が欠落しているのです。人間の気持ちとしてのイベントで行うから自己満足で終了し、生き物が枯れ死んでいく過程に関心がない事が原因なのです。つまり、人間の善意は人間にとって身勝手な善意であって、破壊されていく自然にとっては破壊行為と大して変わらないという事です。苗木を植えた後に水や肥料を入れるなどのアフターケアをすることぐらいは誰でも知っている事なのに、植林は政府や企業が環境に優しいというイメージを促進する広報に悪用しているだけだからこんなことが起きるのです。オランダに本拠地を置くNGO法人の国際湿地保全連合は「近年行われたマングローブの再生プロジェクトの成功率は15~20%」と報告しています。SDGsそのものも、中身を読むなら、今の生活を維持するにはどうしたらいいかからしか始まっていません。それは、人間の都合を如何に継続できるかと言う発想で自然が求めているものでは全くないという事も言えます。一方で自然破壊としての山を切り崩していながらアリバイのように無理な植林をする、そうして人間の生活だけを持続可能にするという事は唯の我儘にすぎないのです。

スポーツから勝利至上主義を取ったらスポーツでなくなるの話

     スポーツで体罰や不祥事が起きるたびに、スポーツの勝利至上主義が非難され、関係者からはスポーツの利点が言い訳されます。そして、スポーツの勝利至上主義を否定する関係者も、勝利を諦める事ではないなどと勝利を求めた結果に勝利至上主義がある事を認めようとしません。勝敗を決するスポーツで、勝利を目指さないなんてことはあり得ないし、勝負は勝たなければ意味を成しません。実際に、勝つと利益が生まれ、負けると負債を負うと言うのが事実です。勝ち続けるものは高額な報酬や地位を獲得し、負けたものは勝った者を引き立てて消えていきます。アイドルになりたいと言うと多くの人がそんなことは一握りの人の世界だからと難色を示しますが、スポーツで身を立てたいと言えば「努力するんだよ」程度で受け入れます。そこには、評価は他人であるアイドルと違いスポーツは「努力が報われる」などと宣伝されているからです。しかし、どんなに努力しても勝者しか栄冠は得られませんから、勝つことが必要十分条件なのです。どんなことを言ってもスポーツの勝利至上主義そのものは、普通なのであって間違いではないのです。それは、勝負には勝てばご褒美がありますが、負ければ傷が残るという現実を正視すれば明確な事です。しかし、日本的事情としては、その傷が「恨み辛みに」なって、復讐する事になる事を恐れて負けた者救済としての教育的配慮があるのです。この感覚は、日本の古来からの政治にも厳然と続いている事です。天満宮は菅原道長の怨霊を鎮めるためにあるように日本では権力を頂点として、勝負で負けたものが祟る事を危惧して負けたものを称えると言う慣行が続いているのです。ですから、最近は「ノーサイドの精神」、「グッドルーザー」などと言う言葉を並べて敗者をなだめ、癒そうとしているのです。好戦的な人間は、勝負となって敗者の事など考えることはありません。自己の勝利の為だけに努力します。ですから、「スポーツを通した人間形成」では、勝敗に敏感な人間が形成されるのであって、圧倒的に強くなければ相手の事を考える人間性など持ち合わせる事などありません。スポーツを通じて「公平性」などが形成されることなどもありません。何故なら身体機能は努力では変更できないからです。一人一人の身体機能の違いは不公平に既に出来ているのです。スポーツ関係者は選手は悪くないと言うことから始めなければなりませんから、指導者が勝利に多大な価値を置いている事を勝利至上主義とすり替えていますが、選手自身が勝ちたいとしか思っていないのは当然です。そして、勝てるなら厳しい叱責や体罰等も受け入れてしまうのです。ですから、勝ちさえすれば叱責も体罰も「愛の鞭」に変身し選手は感謝を語り、負ければ「虐待」になるだけなのです。つまり、勝利至上主義がまかり通っている現場では、選手がスポーツを無理矢理やらされるなどと言う事は起こらないのです。にも拘らずスポーツ関係者は、問題が発覚すると、勝利至上主義の指導者に無理矢理やらされると選手を場外に出して指導者を悪人に仕立てることで解決を図ろうとするのです。浸透した勝利至上主義の中にいる選手は、無理やりやらされているのではなく自ら進んで積極的に行っているし、プレッシャーに勝つことこそが精神の訓練だとしか思っていないのです。何故なら「勝ちたいから」その一言に尽きるのです。スポーツには勝利以外にも価値のあることが存在するとスポーツで暮らしている人達しは、自分を正当化するために言いますが、勝利の美酒は勝利以外の価値を認めてはいないのです。勝利至上主義を否定する関係者でも「負けから学んで成長する姿勢を持って取り組んでいけば、結果的には勝利へと繋がっていきます」と言うように、結果は勝利が栄冠なのです。失敗や労苦を乗り越える貴重経験も成長する証としての勝利に結びつくのです。ですから「負けたが善戦した」は負け惜しみそのもので負けた者には何の価値もない事なのです。負けたものに恨みを残させない方式、努力は必ず報われると言う嘘、栄誉は公平ではなく最後は、利益の分配でしかない事を見えなくしているだけなのです。負けても上達する目的や意欲が生まれるのはその意欲と目的は勝利だという事を忘れるべきではありません。競争があり、勝負がある限り、ライバル意識や敵対心を高め、負けた側は自信をなくすと言うのは現実なのです。昨今のサッカーでも勝てばテレビでも大騒ぎをして負ければ非難される状況を冷静に見ているのは選手たちで、これが勝負の世界と認識しています。大人の営利がスポーツなのです。

仏法の力はこの程度の話

「残念ながら境内のトイレは撤去することになりました」と言う報道記事が出ました。兵庫県西宮市六甲山の麓にある高野山真言宗鷲林(じゅうりん)寺の境内にある参拝者用トイレを撤去しなければならなくなったのは利用者の一部の不埒な奴がいるからだという事です。住職は、以下の理由を上げて苦渋の決断と言いますが、結果は「撥当たり仏法の敗退」だと思うのです。記事では、同寺は平安時代、833(天長10)年に建立の古刹で、境内のトイレは参拝者用に用意されたものでしたが、ハイキングガイドに登山コース最後のトイレスポットと紹介されてハイカーが多数利用する事になったという事です。その為汚物に汚されトイレ掃除は大変で、SNSにトイレが汚いと投稿されたり、手洗い場の水道の栓を壊されたり、トイレットペーパーを持ち去られたり、トイレットペーパーがないじゃないかと怒鳴られたりと散々な目に遭ってきたという事です。でも、公衆トイレってこれ普通だと思うのです。多くの公共トイレはこれ以上の苦渋を味わいながらもそれこそ頑張って管理していると思うのです。その基本は、9割の善良な使用者の感謝の気持ちに応えたものだと思うのです。どんな集団にも1割は不良分子は紛れ込みます。全員が良い人なんてことはありません。でも、少数の不良分子の行いの為に多数の善良な人たちの利便性まで奪ってしまうと言うのは、仏法者としてあるまじき行為だと思うのです。第一、こんな不良分子にこそ仏法が必要なのでしょうから懐深く受け止めてみるべきだと思うのです。例えば、トイレを有料にすることも出来ますし、トイレットペーパーだけを有料にして清掃管理費用を念出することも出来ます。どんなことでも管理費はかかるのですから利用者が負担するのは当然で何でもタダと言う感覚が間違っています。儲ける必要はありませんが必要経費は負担させること等普通だと思うのです。例えば、トイレの中に簡単に使用できる清掃用具が置かれていたなら入った人が清掃して使用してくれることもあるかもしれません。トイレの清掃用具が盗難にあう事やいたずらされる事で清掃用具は別の鍵付きの中にあったりすれば汚したままで去る事になりますが、簡便にでも清掃用具があれば申し訳ないと言う人もいます。重要なのは、一部の悪人がいる事で善人たちの力を信じない仏法者の情けなさです。寺のトイレであればハイカーの中にも清掃ぐらいしてくれる人は絶対にいます。むしろ、そういう人たちがSNSで自分で清掃するトイレですと広報してくれるかもしれません。自分で清掃した写真付きで。記事の中には、トイレを新しくしたときに、弘法大師の言葉を短冊に書き入れ、トイレの壁面に飾り、『布教もできるトイレ』として完成したという事も書かれていましたが、弘法大師ならもっともっと工夫をして布教の場を自ら減らすようなことはしないと思うのです。住職は、「長きに渡りきれいにお使いいただくよう勧告してきましたが、全く改善されませんでした」と語っていますが、「勧告」するという事がまず間違いだと思うのです。今時は役人でもこんな手段を行いません。相手の自発性を促す様々な対応に社会全体が工夫をしているときに、注意しても聞き入れられない一部の人間がいるから、参拝者が来たとしてもトイレは無いと言う事態にしてしまうのが宗教家なら辞めた方が良いと思うのです。この住職は、古刹の上に胡坐をかいて自分のいう事を聞いてくれる人だけで生活できるから、宗旨が違う人に対しての布教なんて絶対に出来ないし、布教という事も知らないと思うのです。古い宗教がこんな事だからカルト宗教がのさばるのだとも思うのです。人の心、仏の心を説いていくはずの宗教家が排除の論理を掲げて参拝者の不便を押し付けるなんてことは失格としか言えません。「先代の住職夫妻は、こんな山の中に人が来てくれることがうれしい、お寺に関係のない人でもありがたいとずっと言っていました。」の心さえ伝承できない住職では、人間の弱さを非難するだけで救済は出来ないと思うのです。

 

仏法の力はこの程度の話

「残念ながら境内のトイレは撤去することになりました」と言う報道記事が出ました。兵庫県西宮市六甲山の麓にある高野山真言宗鷲林(じゅうりん)寺の境内にある参拝者用トイレを撤去しなければならなくなったのは利用者の一部の不埒な奴がいるからだという事です。住職は、以下の理由を上げて苦渋の決断と言いますが、結果は「撥当たり仏法の敗退」だと思うのです。記事では、同寺は平安時代、833(天長10)年に建立の古刹で、境内のトイレは参拝者用に用意されたものでしたが、ハイキングガイドに登山コース最後のトイレスポットと紹介されてハイカーが多数利用する事になったという事です。その為汚物に汚されトイレ掃除は大変で、SNSにトイレが汚いと投稿されたり、手洗い場の水道の栓を壊されたり、トイレットペーパーを持ち去られたり、トイレットペーパーがないじゃないかと怒鳴られたりと散々な目に遭ってきたという事です。でも、公衆トイレってこれ普通だと思うのです。多くの公共トイレはこれ以上の苦渋を味わいながらもそれこそ頑張って管理していると思うのです。その基本は、9割の善良な使用者の感謝の気持ちに応えたものだと思うのです。どんな集団にも1割は不良分子は紛れ込みます。全員が良い人なんてことはありません。でも、少数の不良分子の行いの為に多数の善良な人たちの利便性まで奪ってしまうと言うのは、仏法者としてあるまじき行為だと思うのです。第一、こんな不良分子にこそ仏法が必要なのでしょうから懐深く受け止めてみるべきだと思うのです。例えば、トイレを有料にすることも出来ますし、トイレットペーパーだけを有料にして清掃管理費用を念出することも出来ます。どんなことでも管理費はかかるのですから利用者が負担するのは当然で何でもタダと言う感覚が間違っています。儲ける必要はありませんが必要経費は負担させること等普通だと思うのです。例えば、トイレの中に簡単に使用できる清掃用具が置かれていたなら入った人が清掃して使用してくれることもあるかもしれません。トイレの清掃用具が盗難にあう事やいたずらされる事で清掃用具は別の鍵付きの中にあったりすれば汚したままで去る事になりますが、簡便にでも清掃用具があれば申し訳ないと言う人もいます。重要なのは、一部の悪人がいる事で善人たちの力を信じない仏法者の情けなさです。寺のトイレであればハイカーの中にも清掃ぐらいしてくれる人は絶対にいます。むしろ、そういう人たちがSNSで自分で清掃するトイレですと広報してくれるかもしれません。自分で清掃した写真付きで。記事の中には、トイレを新しくしたときに、弘法大師の言葉を短冊に書き入れ、トイレの壁面に飾り、『布教もできるトイレ』として完成したという事も書かれていましたが、弘法大師ならもっともっと工夫をして布教の場を自ら減らすようなことはしないと思うのです。住職は、「長きに渡りきれいにお使いいただくよう勧告してきましたが、全く改善されませんでした」と語っていますが、「勧告」するという事がまず間違いだと思うのです。今時は役人でもこんな手段を行いません。相手の自発性を促す様々な対応に社会全体が工夫をしているときに、注意しても聞き入れられない一部の人間がいるから、参拝者が来たとしてもトイレは無いと言う事態にしてしまうのが宗教家なら辞めた方が良いと思うのです。この住職は、古刹の上に胡坐をかいて自分のいう事を聞いてくれる人だけで生活できるから、宗旨が違う人に対しての布教なんて絶対に出来ないし、布教という事も知らないと思うのです。古い宗教がこんな事だからカルト宗教がのさばるのだとも思うのです。人の心、仏の心を説いていくはずの宗教家が排除の論理を掲げて参拝者の不便を押し付けるなんてことは失格としか言えません。「先代の住職夫妻は、こんな山の中に人が来てくれることがうれしい、お寺に関係のない人でもありがたいとずっと言っていました。」の心さえ伝承できない住職では、人間の弱さを非難するだけで救済は出来ないと思うのです。