知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

BS通販複合汚染になり兼ねない、健康食品の話

     年取って暇になるとテレビが友達の一人のようになるのですが、特にBSなどは通販番組しかないのかと言うぐらい通販で溢れています。しかも通販で購入するのは年寄りが多いのか、年とともに訪れる、歩行や身体の老化、健康の回復に関わる商品がづらりと並び延々と脅し続けられるのです。そんな広告を見ながら思うのです。金粉入りのお茶やまんじゅう、果ては和食の副菜にひらひら揺れる金箔を食べたところでうんことして出てくるだけで絶対に体に吸収されることなどないのにと。薬品の効能が分かったとしても製薬会社が問題とするのは、どうして患部に届けるかという事でどんな薬効があったって適正な部位に届かなければ、どんな薬も効果はありません。テレビの放送を含めた健康関係の通信販売では、薬からサプリまで多種が研究販売されて、成分の科学的根拠まで説明します。ですから、権威あるドクター迄出てきたり、実際の使用体験者迄でてきますから、本当に効きそうだなーと思い込ませるには十分な放送でもあります。時には、30分程度のドラマ仕立てまでありますし、CМも秒単位ではなく、分単位の放送が多くみられます。しかし、化学としても正しい物質でも人体にどれだけ吸収され、人体の中でどれだけの効果や作用があるかについては人それぞれで宣伝通りの効果・作用があるとはとても思えません。その第一関門が体の消化吸収と循環という事でこのシステムは生命を司っており複雑でそんなに簡単ではありません。口から入るものは、消化器官を通じて吸収され血液やリンパの流れに溶け込んで流通し必要なところまで運ばれ、活用されて初めて意味あるものになります。消化と言うのは、化学的消化や生理学的消化、菅空内消化などいろいろ言われますが、要するに、物質を分解し分子レベルまで、砕いたり、溶かしたり、乳化などの変化を促して体内に吸収できるようにする作業ですから、効果のある物質であろうとその過程で破壊されたり排除されたりしてしまえば、意味はありません。点滴のように外部から血管に直接注入するなら別ですが、テレビ等で宣伝されている健康薬や健康食品は口から入れますから、吸収されなければ結果はただただ排泄されるだけなのです。消化では、酵素・胃液・胆汁、酸、アルカリ、腸内細菌を利用して、吸収される単位まで分解する事ですから分解されてしまったならその効果も作用も行えません。膜消化によって、最終的な分解と吸収が行われる軌道に乗らなければ体内の循環機能を利用する事は出来ないのです。一方その、消化・吸収をしやすくするための環境づくりをするため腸内細菌が存在し、腸内環境を改善する微生物や細菌があると宣伝もされ微生物を含む食品(ヨーグルト、乳酸菌飲料、納豆など)があると広告もしています。しかし、人の体内では、それぞれの消化器官で、消化酵素や消化液によって、タンパク質・脂質・糖質は分解され管腔内消化と膜消化によって栄養は吸収されますし、腸内細菌によって、人間の体で分解できない一部のものが分解され、最終的に未消化物が体外へ排泄されます。ですから単体としての効果・効能がある物質でも、人体の中でその効果・効能を発揮するには関門が多すぎるのです。CМはそんなクレームは見越していて、とても小さな字で「効果は個人で違います」とか「医薬品ではありません」とかあやふやな言葉を画面にこっそり出しています。確かに昔から、すっぽんが良いとか蝮が良いといいますが、その理由は、噛みついたら離さないとか、蝮の毒はすごいからアルコールで漬けて飲めば滋養強壮になる等々で、それはサイの角が爪と同じ成分なのに効果があると高値で売られていたり、エジプトのミイラが漢方薬として売られていた事と大した違いはありません。強い物、毒となるもの、特徴的なものには、何かあるに違いないと言う程度の、「あやかり商法、あやかり商品」のたぐいにすぎません。BSの宣伝広告費がどれほどのものなのか分かりませんが、一日中何チャンネルもが放送し続けても、広告主の会社が赤字にならないだけの販売が出来ているとも言えますから、公共放送で大勢の人が騙されているとしか思えません。見なければいいと言う人もいるでしょうが、社交性もない、趣味もない、出かけるのもおっくうだと感じている人には、テレビはそれなりの意味があります。公共放送であるテレビと言うお墨付きで延々とCМとして健康の為と脅しながらいいぞいいぞと刷り込まれていくのですから見方によっては、公共の詐欺商法とも言えなくもありません。複合汚染と言う言葉があるように、良かれと思っても健康食品やサプリを複数服用したなら体にいい事は無いとも思うのです。それぞれ単体なら毒にもならなくても、複合すると猛毒なんてことは普通にあります。それだけに通販の検証が必要なのではないかと思うのです。

特例子会社は、特別支援学校の社会版の話

   世の中には、抜け道なるものが沢山あって不正じゃないけど正道から見れば邪道でしかないことが社会では堂々と認められている事は山ほどあります。その一つと言えるのが、特例子会社です。特例子会社と言うのは、会社の事業主が障害者のための一定の要件を満たす子会社を設立して、その子会社に雇用されている障害者を親会社や企業グループ全体で雇用されているとすることで、障害者雇用の法定雇用率をクリアーするには格好の抜け道そのものです。例えば、親会社、子会社含めて、1000人のグループ企業があったとして、今日の障害者法定雇用率は、2.3%ですから、23人雇用しなければなりませんから、特例子会社を作ってまとめて23人雇用すれば全体が障害雇用率を達成したことになると言う抜け道です。このメリットは非常に大きいと言えます。一番は、労働規約は会社ごとでいいのですから、給与や待遇福利厚生に至るまで全く別でも良いのです。親会社の正規社員が月給40万円でもこれに合わせる必要はなく、最賃の非常勤雇用でも成立するのです。勿論ボーナスなんかも全く違っていても問題はありません。二番は、設備投資が低額です。福祉施設とは違いますから設置基準などありません。人員に対しての基準も無茶苦茶緩くなっています。仮に一人一人がバラバラに配置されていたなら、車いすの人がいればその人の分ほど車いす対応のトイレや手すりを含めた設備改修費が必要ですが一か所にまとめてしまえますから余っている会社の余分なスペースに押し込める様に設置しても成り立つのです。指導できる職員の要請はありますが、基本は自立した労働者の扱いですから補助金で縛るようなことはありません。三番は、千人規模の会社にとって特例子会社の赤字は、連結会社としては税金対策ともなります。年収ベースで一人300万円として23人分は6900万円です。罰則金は、月額一人5万円ですから、23人でわ雇用しなかったとすれば1380万円払う事になりますから実質の出費は5520万円という事になります。千人の会社の人件費は、一般企業では、年収400万円でも40億です。最低賃金で雇用できるうえに福利厚生も別枠で良いのですから、後は、この特例子会社をどれだけ働かせるかで負担はさらに減るだけでなく、障害者雇用にも実に良く取り組んでいると言う評価まで得られるのです。現に、2021/09/07 労働新聞社によると、東急リバブルは、派遣子会社に障害者を集約し、人材派遣および販促支援業務を行う100%子会社・東急リバブルスタッフ㈱が、特例子会社の認定を受けたと意気揚々と発表しました。ここでも、グループ企業が個々に雇用していた障害者を、今後は東急リバブルスタッフ㈱で一括して雇用すると言うものです。販促支援の業務が何を指すかまでは記載されていませんが、特例子会社を持つ多くの会社では、それまで発注していた清掃などの雑務を特例子会社を立ち上げて障害者に振り向けています。そして、障害者は施設で働くよりはるかに高額で雇用されていると評価されているという事です。ここで考えなければならないのは、一つは障害者を集めて仕事をさせる方式は既に福祉事業としてあるという事です。そして、その福祉事業において非難されているのは、障害のある人も障害のない人も同じ場で生活する事に反しているという事です。学校教育では、障害の理解として障がい者と健常者の交流を制度として行わなければ、成長期に実は障害者は特別支援学校に分離されてしまっていて身近に接する事が無くなっているのです。大人になって職場に行って初めて障害者に接することになって驚くという事が現実なのです。ところが、この特例子会社方式が浸透するなら、正に障害者の隔離政策そのものなのです。もう一つは、障害施設があまりにも低賃金だという事です。就労A型は最低賃金でなければならないと言いながら、適用免除の制度があって最賃ではない賃金で働かされている障害者がいるのです。さらに、就労Bに至っては、労働者ともされていないのです。あくまでも訓練生で何十年働こうと労働者には成れないという事です。つまり、福祉施設での福祉的就労なんてことを厚労省が認めているから福祉施設の賃金は上らなくてもいい事になってしまっているのです。残念なことに、現状は、障がい者をまとめて低賃金で働かせるのが特例子会社で、障害者をまとめて労働者としての権利を認めていないのが福祉施設と言う構造になっているのです。成人の大人として仕事についたら労働者ですと認めさえすれば、福祉施設の意識は変わるし工賃は上がります。そして、特例子会社なる抜け道も不要になります。その原点は、障害がある人も障害がない人も同じ場面で生活し働くことだと思うのです。

 

立ションベンはどこへ行くの話

 軽犯罪法第一条26に「街路又は公園その他公衆の集合する場所で、たんつばを吐き、又は大小便をし、若しくはこれをさせた者」を「拘留または科料に処する」という規定がありましてトイレ以外で排泄すると軽犯罪になるから駄目だよ程度は今なら誰もが認識しているところです。ですが、逮捕されたという事は聞きませんし、昔は町のあちこちに「立小便禁止」と言う張り紙や立て札を設置しなければならないほど、日常的に立小便が行われていたことは事実です。私が、子供の時には、ミミズにションベンかけたらあそこがはれると言われたり、川におしっこすると川の神様に叱られるなどと言われながらも男の子にとっては立ションベンは普通のことでした。友達と一斉に野原に向かって立ションベンをしたり、トイレへ行くのを「連れション」と言ったり男の子は露出して排泄する事が比較的平気だった時代でもありました。また、「かえるのつらにションベン」なんてことわざもあり、「ションベン」という言葉も日常にあったと思うのです。「粋なネーチャン、立ちションベン」とフーテンの寅さんの口上にもあってパンツを履く習慣が出来るまでは、女性も立ションベンしたなんてことも言われています。ションベンと言うのは、小便が転訛したもので、テマエ(手前)がテメエになる類の説とも言われています。少し調べると、町人は「しょんべん」、侍は「しょうべん」の使い分けがあったという説もあったりして「ションベン」は方言ではなく、立ションベンを含めて普通に通じる言葉であるという事は間違いなさそうです。流石に今日では簡単に立ションベンを見ることもなくなり、犬の散歩でも排泄物は持って帰る、ションベンを掛けた電柱には水をかけている時代になってくると立ションベンは社会的に非難される環境が出来てきたからかもしれません。今日では外国からは、日本はゴミのない清潔な国だと言われると自慢する人もいますが東京の街にゴミがない歴史はとても浅いものです。日本では、川や野山にゴミを捨てることは意外と普通で、町の中にもごみが散乱しているのは東京オリンピック前までは普通の風景だったのです。世界の人が来るのに恥ずかしいと東京都が大号令をかけて町や川をきれいにしたと言う事はオリンピックの裏話としてあまり広報されていませんが、ゴミ収集と言う考え方は本当に日本の歴史では浅いのです。しかも、収集したごみは、ほとんどが焼却か埋め立てで済ませていた時代には一軒家などでは生ごみは庭に捨て、燃えるものは古くなった一斗缶などで燃やしていました。それが出来なくなってきたのは大量消費の時代に入って石油製品や電化製品などのゴミが増えてきたからです。ですから、列車の中も新聞紙や食べ物の包装紙やお菓子の箱など平気で捨てられていた時代があって、網棚に週刊誌も新聞もなく、床にはたばこの吸い殻も無くなって、空き缶が床を転がっていたならひどいやつがいると思うようになったのはこの数十年の変化なのです。東京の、東京湾埋立地に捨てられた生ごみで、ハエが無茶苦茶発生し問題になった事もあったぐらい集めて一か所に捨てる程度の方針は今も同じでそんなに意識が変わったわけではありません。他にも、明治の時には、褌(ふんどし)で裸でいると外国人に野蛮人と思われると裸でいる事を禁止されたこともあるように、とにかく、日本風と言うのは外国からよく見られたいと背伸びする国風で、評価を得るために文化なんて関係なく一気に変えてしまうことがしばしば起きます。しかも、欧米と言うのはキリスト教と言う価値観が一枚噛んできますから意外と国風には合わないものもあるのですが、外見的な評価を得るためには、取り繕うと言うのが日本風です。遠い昔は、中国に追随し、近年は欧米に追随すると言うのが日本風とも言えます。ともかく追従型とはいえ、環境が良くなるのなら、たばこの事や温暖化のことなどそれはそれでいいことかもしれません。その影響なのか日本風の旅館のトイレは男女共同でしたが、今では男女別になったきましたし、今では工事現場でもイベント会場でも移動式トイレが設置されて、隠れて木陰で立ションベンをする事さえ恥ずかしい事となってきました。さらに、駅や公園でないと利用できなかったトイレが、コンビニのトイレを貸してくれるサービスが一般化する事で、人のいない場所を探すよりコンビニを探す方が早いと言う時代にもなってきました。歴史で習う、貴族の寝殿造りにはトイレが無いように、日本では男の立ションベンはごく普通がつい数十年前までありました。ですから同じ生理機能を持つ女性にとっては外出先での排泄方法では無茶苦茶大変で便秘になってもおかしくない苦痛だったと思うのです。男が、立ションベンが出来なくなれば自分の為にも外でのトイレ普及に真剣になって女性も使い勝手が良くなるのなら立ションベンで検挙する位取り締まるのもいいかもしれません。

 

他人と比較する人は幸せになれないは、本当ですかの話

 自分中心の見方にならない様に、客観的に周りを見なさいと言う一方で、他人と自分を比較する人は幸せになれないと言います。この矛盾した言葉は、他人を責めるときに都合のいいように使われます。確かに、我が強い人には、周りを見ろと言うのは有効かもしれませんし、本人が落ち込んだりすれば周りを気にするな自分は自分だと励ますのに有効かもしれません。でもどっちも他人が他人をコントロールする言葉の刺であってその場しのぎのカットバンでしかないと思うのです。実際誰もが思う事は、子供の頃の方が他者との比較感が少ない分幸せを感じやすく、大人になるほど幸せ感は低くなっているなという事です。その理由に子供の頃は無邪気だったからで納得するのですが、子供より大人の方が幸せってなんだろうを繰り返し問いかけていると思うのです。人は、子供の時から勉強が出来る出来ないから始まる多種多様な比較の中で評価されてきます。そして比較する事こそが、現代を生きる人間の自他の識別の根源ともなっていますから、現代人は比較を気にしないなんて出来るわけがありません。比較の中に落ち込みもがき、比較するほど幸せ感が沈んでいくので、幸せそのものが何かを見つけることすらできなくなっています。しかも嘘の情報から装飾された情報、創作された情報を含めて検証も出来ない比較情報が提供されている状態に置かれていますから、疑問は膨らみ、そんなこと気にしなくても良いんじゃないと言われながら、のど元に情報を突き付けられる時代でもあるのです。自己肯定感を脅かす、何でもない比較情報がそこここに溢れていて偶然に気にしたなら搦めとられて不幸に落とし込まれかねないのも現代です。例えば、最も無駄と思われる、「しあわせ度国別ランキング」によって高い位置にあったブータンは、報道されて国内に外国メディアが入ったことで、他国との比較がなされた途端に、2019年度版で156か国中95位になりその後は出てきません。家があり家族がいれば幸せと言っていた幸せ感は、やっぱりそれだけで幸せと言えるのかと言う豊かな国からの突きつけに黙らせられたのです。一位になっているのはフィンランドなどの北欧の国です。そして、一位の理由は、他人と自分を比較したがらない独自ペースが好きな国だからと言います。でも、日本風に言う謙遜を美徳とする本音を言わない人たちから見れば、自己主張の強いうぬぼれた人たちともいえますから、幸せという事自体が見え張ってるんじゃないとも言われかねません。つまり、他人と比較する人は幸せになれないを現代で考えれば、余程強固な自己肯定者でなければ幸せになれない事になり、幸せでないという事は、不幸なのかという事になってしまいます。言い換えれば、他人と比較する人は不幸になると言う言い方も成り立つのかという事でもあります。人は、不幸と言う言葉に強い反感を持っていて幸せではないけれど不幸ではないと言う言い方もします。ですから、幸せを考えるときは、逆に不幸とは何かを考えなければなりません。「幸せってなんだっけなんだっけ」と言うテレビCМがありましたが、日本人的には幸せですかと問われたら照れてしまう問いかけでも、不幸ですかと問われたら即座にいいえと答える感覚の言葉です。だから、「幸せなら手をたたこう」は日本が発祥と言われる歌で、間接的に手をたたいて表現すると言うのが受けて流行りました。「幸せ」という言葉がその社会でどのような重みで受け取られているかで問う方も問われる方も全く違う感覚でいるとは思うのですが言葉としては、その人の核心となる思想に大きく関わるものだとも思うのです。それだけに、その言葉には、宗教的影響はとても大きいと思うのです。一方不幸と言うのは、幸せが広く解釈されるのに対して狭い解釈で否定と拒否、そして嫌悪の言葉として捉えられ不幸でありたくないと言う心情から反応される場合が多いと思うのです。人の不幸は蜜の味と言う言葉もあるように、他人と比較する事でないと幸せを感じられないと言うのも人間ではないかともいえるのです。上を向いたらキリがない下を見たなら後がない状況でも、横を見たなら他人が見えれば、比較してしまうのが人情でもあると思うのです。物の豊かさと精神の豊かさなんて事でも、結局は比較しているだけです。社会が複雑になればなるほど、比較内容もささやかな事で一喜一憂することになり、比較する他人さえも多種多様になってきます。そう考えると、他人と比較する人は幸せになれないは嘘で、他人と比較することによってしか人は幸せを感じられない時代に遭遇しているのだと思うのです。

地産地消で活性化は出来ないの話

 何か、とてもいい響きのする「地産地消」と言う言葉に惹かれる人は多いと思うのです。でも、単純に考えてください、地元で採れた物を地元で消費する、を簡単に見たなら、自給自足とどう違うのかという事です。地産地消と言えば、地域で生産された様々な生産物や資源をその地域で消費することですが、例えば、大根はとれてもリンゴはとれなければ、大根とリンゴを物々交換しなければ、大根しか食べられません。みかんがとれても米がとれなければ、みかんを販売したお金でお米を買わなければなりません。経済と言う側面で見たなら、自給自足は、自分たちが生産したものだけで生活しなければならない事になり閉鎖的な地域や国の状態と同じです。古代から人間は、交易と言う言い方で、対外交易の関係によって、過不足の調整を行ってきました。その交易もその地域の特産物などをより高い価値づけを行う事でより多くの物品を得られるようにしてきました。しかもそれは、村同士だったり町の規模であったり国の規模であったりしてきました。それに、地域で採れたと言ってもその地域の生活レベルでは消費出来なかったものもあります。例えば絹製品など養蚕が盛んな地域であっても誰もが持てるものではありませんでした。鯛やアワビ、伊勢海老と言った換金性の高いものは地元より都会に出荷すると言うのも常識です。換金商品では地産地消などという事は全く考えられていません。地域で消費されるのは、換金性の低い規格外品だったり腐敗が早く輸送が困難なものが地域で消費されました。今日では、冷凍技術による保存手段の発達や移動運搬技能の発達により流通が広域化しており、地産地消よりは如何に地域の生産物を地域外へ売り込むかが地域活性化のカギとまでなっています。ですから行政が推奨する地産地消のモデル事業をみても、他の地域に売り込む事がメインになっていて結局は地域で消費すると言う事ではないという事が分かります。過去には、流通条件が整はないから地産地消しかできなかった品物も地域活性化の為に外部へ販売する方法の手段としてまず地域で購入し宣伝して売り出そうと言うものばかりです。ふるさと納税で地場産かと揉めた車や電化製品など地場産業と言うよりも地域の働く場で製品は地域の人間が触れることもなく出荷されてしまう場合もあります。では今何が地産地消なのかと、地産の内容を確認すると、単純に農作物の販売方法でしかない事も分かります。地方だけでなく都市部にあっても、耕作放棄地が増加し、農業従事者の高齢化が進み、海外からの輸入が増えている現在日本の農業は、国土の限られた優秀な耕作地を開発行為によってどんどん潰していくと同時に農業従事者の減少によって耕作放棄地を作り出しているのです。機械化を図り耕作面積の集約による生産規模の拡大によって農業従事者の収入増を図ろうと補助金を振り撒いているのに、その効果は上げられないでいるのです。驚いたのは、農業と福祉を結び付けようと言う農福連携などと言う愚策です。今農業のほとんどは機械化が重要で、大量生産にあっても機械を使用しなければ出来ません。しかし、知的障害者はバイクはもちろん車の免許さえ取れない状況にいますから、農業に就労するなら、トラクターの免許を特例で認める位の英断が必要です。その農地内だけの免許であっても農機具の運転が可能とならなければ手作業で出来る範囲など知れています。結果、障害者は免許ある人の補助しか仕事はなく農業では主役どころか脇役にもなれず自立度は変わらず低いのです。農業政策は、過去の口分田以来の農地と人間を貼り付け税金を取る事が基本政策としています。しかし今日税制体制は大きく変化し、農地と農民を固定させるような農業政策は失政の一つになっています。農地の保全の政策が農地の流出を促し、農地を保護しようと言う政策が農地を放棄させています。それは、国家の管理から、領主の管理へそして個人の管理となった農地は、固有資産税や相続税などを通じて、家として継続する事を継続しようとしているからです。農地を保護するなら売買において流通しやすくし誰が所有しようと農地以外の使用を認めない土地に限定していけば農地は守られます。ところが、広い農地を相続する家族には相続しやすくするために相続税を安くしていますがそれは、職業の選択から言うなら家業を継がないなら金をとると言っているようなもので、金を払ってでも農業は嫌だと言う人にとっては農地を手放すことになってしまいます。その一方で農業をしたいと言う人が参入する事を妨げているのも農地に対する農業政策なのです。農地を賃貸借で借りて農業をする事さえ制限しているように、農業をやりたくても簡単には参入できにくくしたうえで、農業を守ろうと地産地消を叫んでいます。ですから、地産地消の中身は、農産物直売所での販売、学校給食の消費、病院・高齢者施設での給食での消費、地域支援型農業等の取組など単なる地域の農業の衰退対策でしかないのです。都会と言う農産物の消費地は規格品、見た目大事が大きく、生産地では規格外生産物が非商品とされることによって生産効率の悪化や廃棄が大きくなり、生産単価が上がらず生産者の衰退につながっていることから形が悪くても揃っていなくても味は同じで捨てるのは勿体ないと地域での消費をと言うのは、援農と同じ事でしかありません。地産地消などと掛け声をかけて農業振興を叫ぶより、誰でもが参入できる体制にしなければ優秀な農地こそが消滅していきます。地産地消よりも、農地解放の方が大事だと思うのです。

神は間違えて肉食獣を作ったの話

 ある古典の書では、神が全ての生き物を創造したと述べています。とするなら、地球にとっては人間を創造したことが大失敗で小失敗が肉食獣の創造だと思えるのです。人間は、生態学食物連鎖や弱肉強食などを語り、自然界のビラミットの頂点に肉食獣がいると言い、ライオンはジャングルのキングと言ったりして肉食獣をたたえるエンブレムや紋章に使ったりします。そして、肉食獣が草食獣を制限する事で自然界のバランスをとっているかのような説明をします。しかし、真面目に考えてみれば、ジャングルを食べつくすほど草食獣が繁殖する可能性はありませんし、仮に、植物の量が草食獣を養えなくなれば植物より先に、草食獣が飢え死にして絶滅します。大胆に言うと、生物同士が生物の繁殖や絶滅をコントロールしているのでは無いという事です。生物は地球にとっては一つの副産物であって地球の主たる構成要素ではなく、生物の存在は地球の現状を大きく変化させる要因にはなれないという事です。むしろ気象のほうがはるかに大きな要因です。そして、気象は生物の生命に影響を及ぼしますが、生物が気象に影響を及ぼすことはありません。牛のゲップが二酸化炭素の問題にかかわると言う話もありますがそれも人間の食物としての家畜の問題で自然の状態ではない人的問題です。植物は、地上部を食べられても根が残れば芽を出しますし、種子も残ります。逆に言えば、肉食獣が繁殖すれば、草食獣が食べつくされて絶滅するかと言うとそんなことにはならないという事と同じです。むしろ植物あっての動物ですから動物が植物に影響を及ぼすことなど出来ません。なぜなら、動物と植物の決定的な違いとして植物は、生命として必須なエネルギーの元を太陽光から光合成によって生命エネルギーに変換できる装置を持っているからです。生命体はその生命を維持するためにエネルギーを必要としています。そのエネルギーの取り込み方法において植物は自立していますが、動物は自立していないのです。生命維持のエネルギーは、地球の生命体では、太陽光を変換する事で行われています。その装置である光合成機能を持つのは植物であって動物ではないのです。ですから、動物は植物がいなければ絶滅するという事です。鯨の種類である歯クジラはその巨体を植物プランクトンで維持しているように、植物を摂取することが出来れば動物としての生命維持は可能です。肉食獣は、草食獣を食べることで光合成によるエネルギーを摂取します。ですから草食獣を捕食する苦労を考えたなら自分で草を食べた方がエネルギー摂取としては有利なのです。ただ、植物から得られるエネルギーは少ないために草食獣は常に食べ続けていかなければなりません。食べても食べてもエネルギーが蓄積できない草食獣が保管したエネルギー原を肉食獣は植物獣から奪う事で植物を食べるよりはるかに効率よくエネルギーとして使用できていると言う泥棒行為によって、何日かに一回程度しか猟が出来なくても生存が可能なのです。そんなことを肉食獣は腹が減らなければ猟をせず無駄な殺傷はしないなどと説明する人もいますが、保存技術がないから必要量以上に確保できないだけでそんな人道上的な考えなど肉食獣にはありません。また、植物は繁殖の方法も多彩・多様で、恐竜が絶滅したような事態が起きても繁栄を続けています。ところが動物は、意外とひ弱なのに、群れに雄が一頭なのは強い雄だけが生殖し強いものが選択されているから言いますが、それも正しいとは思えません。なぜなら、カモシカの優秀な雄だけが選択された生殖活動を繰り返していても維持しているだけでライオンが追い付けないほど優秀にはなりません。人間が優秀な遺伝子に拘わる品種改良という事を見てみてもそれは言えます。馬の中でも俊足なサラブレッドの速度は60~70km/hとされ、この速さは、犬やウサギと同じですし、オオカミ(68km/h)とも類似していますが、品種改良によってチーターを抜く馬には成れません。それは身体構造としての変化が出来なければ馬は馬の限界まで行ってそれ以上にはならないからです。群れに君臨できるのは優秀な雄という事は人間の都合の良い考え方であって、群れにチャレンジしている外の雄もほとんどが同等の能力であって何ら劣性ではないということです。種の保存機能に差があるのではなくその環境の中で生活するうえでの単なる仕組みにすぎずそれを人間の世界と類似させて論ずることで利益を得ている人がいると言うだけです。その意味では、人間界でも強いものが優秀な遺伝子を持っていると言うのは間違い以外の何物でもありません。だから、言えることは、神は生物のバランス保持の為に肉食獣を作ったのではなく、生物の多様性として様々な遺伝子の組み換えを行ったと言う事にすぎないと言えるのです。その邪魔をしているのが人間で、人間を作ったことが地上の生物の多様性を失わせ、バランスを著しく狂わせる原因となってきていると言うことは間違いありません。そう思うと神もまた失敗だらけで人間を見つめているのだと思うのです。

 

住民の面倒くさいが危険を温存しているの話

神奈川県逗子市のJR横須賀線逗子駅から約300メートル東にある「山の根踏切」が、20日に廃止された。生活道路として使えなくなることなどに不満を持つ近隣住民が反対していたが、死亡事故が起きたこともあり、設置者のJR東日本は安全を優先させた。と言う記事がありました。記事では、踏切は約35メートルあるのに、遮断機も警報機も設置されていないと言うのです。ただ、踏切は近隣住民にとって京急線逗子・葉山駅や市役所に行く際に使う生活道路で、廃止されると逗子駅近くの踏切まで遠回りする事となると言う事で、逗子市に廃止反対を求める署名も提出したという事です。ここで、知らなかった踏切についてですが、踏切には第一種踏切から第四種踏切まで分類されているそうです。第一種踏切は、警報機と遮断機がついているもので、全国に約3万4千ある踏切のうち9割弱の約3万箇所だと言う事です。第二種というのは、決められた時間だけ踏切保安係が遮断機を操作する踏切、いわゆる有人踏切で、現在は一つも無いそうです。第三種踏切は、警報機はあっても遮断器がない踏切で全国に約760ありますが、ほぼローカル線と呼ばれる地方を走る鉄道で、交差する道路が地元の方しか通らないような狭い道であることが多いそうです。そして、第四種踏切は、警報機も遮断器もない踏切の事で「とまれみよ」の注意書きの上に、黄色と黒の虎模様になっている×印踏切警標がある踏切で全国に3千弱あるそうで、ほぼ町中から外れた小さな踏切で、車が通れないほど狭い道が横切っていて地元の方がごくたまに利用するだけというものがほとんどだそうです。廃止となった「山の根踏切」は第四種ですが駅が発展したことで危険な踏切になったと思われます。一方、2013年1月に小学生が秩父鉄道の踏切で亡くなり、同じ踏切で4年前にも小学生が亡くなっているのに住民の反対で廃止となっていない踏切が行田市にはあるという事です。行田市は、小学生の死亡事故が2度も起きた踏切を、廃止しようとしたところ、踏切を利用する方からの要望が多く廃止できなかったと言います。死んだのは子供ですから、この踏切の近くに住んでいたでしょうし、その子を知っているだろ地域の人間がいるにも関わらず、子供の命より自分達の利便性が優先されています。しかも踏切は自分たちの所有でもないし管理しているのでもないのです。この様な状況は既得権の乱用と言うべきだと思うのです。危険な踏切と評価されても、既得権の様に考えている人たちは、電車が来れば通行しなければいいし、自分は危険とは思っていないと言う感覚だと思うのです。子供は視野も狭いし何かに夢中になると突然の行動や飛び出しなどがあるという常識よりも自分はちゃんとやっているから安全だと言い出す自分の利益が優先される人達だと思うのです。つまり、自分の感覚ではなく、子供の感性や老人の行動などを勘案して危険か危険ではないかを考えるのではなく、自分は出来ているから大丈夫だと言う事だと思うのです。この様な考えに立つと、結果としてそこは危険な場所ではなく、死んだ子供の不注意が原因という事になり、危険な踏切を子供が使用したから死亡事故が発生したのだとはなりません。自分の感覚で大丈夫だから危険とは言えないと言うのは社会では確かによくある言い分です。しかし、今日では、機械製造を含めた製造生産者が、誰が利用しても安全に使用できる事を原則として、利用した人の不注意だと言い切るよう事は出来ません。ですから、誰もが自由に利用できるものは、最も不注意な人でも安全が確保できるのはどうしたらよいかを考えるべき時代に入っているとも言えます。まして、この踏切を設置した当時の人はこんなことは想定できない状況だったでしょうから、公道としての踏切は、鉄道会社や行政の判断で安全確認をすべきだし、危険となれば既得権的な住民の意見を優先すべきではないと思うのです。2002年に施行された「鉄道に関する技術上の基準を定める省令」の第39条には鉄道は、道路と平面交差してはならないと書かれていて原則踏切は違法なのです。しかし、日本は、既得権的内容に対して寛容で、踏切は違法な施設ですが、過去に設置された踏切は黙認と言う形で認めています。新幹線を含めて新しく建設される路線はすべて立体交差で作られているので踏切事故はありません。ですから、法律的にも、住民の反対は既得権を盾にした違法を延長させているだけの事と言えます。現実には、開かずの踏切などと言われるような都会の踏切は、立体交差に変わっています。立体交差は、多大な費用が掛かることから費用対効果で1時間に1本の電車も通らないローカル線の踏切迄立体交差にしろとの要求はありません。次の踏切迄何キロも歩いて遠回りしなければならないローカル線の地域の踏切まで閉鎖しろとは誰も言わないと思うのです。しかし、人が死んでも既得権を盾にするような考え方の人達の反対にあって危険なのに廃止しも出来ない住民の利便性は、ただの面倒くさいでしかないと思うのです。