知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

GoodとBetterとBestはテレビなど放送の使い分けの話

  国が大丈夫と大見得を切っているときや専門家と紹介された人がテレビで大丈夫と言っているときは危険です。裏読みという言葉があるように政治に対しては、日常的に誰でもが裏があって騙されて居るのだろうと気がついていますが、調査するだけの力もないので諦めています。それに、責任回避しかしない国や専門家が大丈夫と言う時に限ってどこかの利権が絡んだ裏があるだろうとも確信しています。時々コメンテーィターが国民はそんなに馬鹿じゃないと言っているのが真実だと思うのです。よく、パニック映画のストーリーなんかでは事実や真実を知った主人公達が活躍するのですがパニックの原因の本当の発表は、国民が疑心暗鬼になって何をするか分からないから、暴動が起きる危険があるからと伏せられます。しかもそんな時は、報道も自主規制なんてことを始めて事実を放送しませんから、報道なんて素直に信用できないと言うのもみんなが知っていることです。それをトランプ氏は逆手にとって大手のテレビはフェイクニュースだと大宣伝をして非難されるどころか賛同されてしまいました。マスコミは報道の正しさなどと言っていますが、案外嘘つきで煽っていることも多くあります。さらに、今日の情報が早く大量に出回る時代では、事実も虚実も混在していて実際誰も確認することが出来なくなりました。コロナウイルスが始まったころ、感染症の専門家はガーゼマスクなど鼻で笑いN95(NIOSH米国労働安全衛生研究所が定めた規格に合格したマスク)でないと無理だと言いました。それは、ウイルスというものを知っている人間としては普通の反応なのでしょうが、マスクが品不足になるに従い何も言わなくなり、ガーゼマスクが配られる頃には、だんまりです。アベノマスクなど効果もないから、税金で買うべきものではないと専門家は主張しないばかりか、手作りマスクでも容認する様な話までします。その結果、今や手作りマスクがどこにでもある世相を迎え、ウレタンマスクが効果は劣るとされても、マスクさえしていれば効果など誰も非難せず、マスクの形さえしていれば、防御効果はないようなものまで出てきたのに専門家は否定すらしません。その言い訳は、GoodとBetterとBestがあるとなるからです。形が整わない、鼻マスクはマスク警察に言いつけられますが、マスクの性能ではなくマスクの掛け方で文句を言われているのです。世界に冠たるコンピューター富岳で息を吐いた時の微粒子の動きを発表したりしていますが、こんなことは科学的なようで全く科学とはかけ離れた実験です。単純にマスクの効果が高ければ、息苦しくて運動などできるわけがありません。マスクは呼吸器前のフィルターですから、精密であるほど空気の流れは難しくなり、使用時間が長いほど詰ってくるし汚染された状態になります。ですから、呼吸が楽で、使い捨てでないマスクなど効果が薄いと警報を鳴らすべきなのです。しかし、毎日テレビでコロナの話をしながら、結局専門家として防御の対応を主張しないばかりか、経済のこともありますしと八方美人のような態度ばかりです。自分たちの役割を考えたとき本当は、国民がパニックを起こそうと経済がどうであろうと正確に言うべきですし、そんな放送をすべきです。知っているフリして知識をさんざんひけらかしているのに、感染が収まらないのは、責任ある発言をしない専門家にも責任の一端はあります。ウイルスを呼び出し変質させたのは、人間です。中国の野生動物を食べる習慣には、家畜ではなく野生の持つパワーを得られると言う考え方があるからです。人の作った野菜より野生の山菜の方が成分が凝縮していると言う漢方薬に通ずる考え方で、中国人は野生種を食することで免疫効果が上がると信じ求めています。その結果が新型コロナウイルスでありサーズだったとしても、気にしていません。同様に世界の開発によって森林の奥に至り深い土壌にいるウイルスが人間と接することになる可能性があると言うのに開発は止まる事はありません。悪役となったウイルスも、安心な宿主を求めて彷徨っているだけで人間を攻撃するために出てきたわけではありません。だから、ウイルスは簡単に変異します。コロナは天災ですか、人災ですかと言ったら、明らかな人災と言えます。現代の専門家・プロと言われる人々が長いものに巻かれるように、GoodとBetterとBestな対応だと言い訳していることが証拠です。

廃仏毀釈が出来る宗教観の話

 明治維新を誉める人は多くいますが、その時見せた日本人の狡さを語る人はあまりいません。中国・朝鮮以外の外国と正面切って対峙したことのない日本は、明治維新と言う表現で都合のいい事ばかりを宣伝して、その狡さを覆い隠したところがあります。特に宗教、信心と言う分野では、自己の利益のために、都合よく捨て去ることも平気でしました。欧米に合わせて作法や礼儀も大幅に切り捨てるのですが、そこにも理由も信念もありません。ただ単に欧米と付き合うためには、なりふり構わず物まねであってもことごとく洋風にすることを優先したのです。通常で考えるなら心の問題でもある宗教では、庶民までもが巻き込むことはなかなか困難なのに、なぜかそんな洋風に応じて廃仏毀釈という事件が起きるのです。絶対神キリスト教は、国家統治にはいちいち政教分離を検討しなくても有効で、イスラム教に至っては祭政一致で不便があっても当然が前提です。宗教としての一神教は、統治者は一人と重ね合わせることのできる思考へと洗脳もできます。ところが、日本的な神仏習合多神教的感覚では、複数の統治者が可能で、天皇と将軍が二人いてもいいし、南北朝のように天皇が二人いてもいいが成り立ってしまいます。そこで1人の天皇のみが統治者とするには、宗教的にも、一つの、神様だけがいいと洋風に伴い考えたのでしょうが、自然崇拝の日本には、神は沢山いすぎました。偉い人たちが論議しても天照大神絶対神にはなかなか成れないのです。突き詰めると天皇家氏神程度になってしまう事もあるぐらいです。明治維新で、王政復古を叫んだ国学者は、日本古来の宗教は神道であって、仏教は外来の宗教であると言っていますから利用したいのですが、排外的・排他的な民族主義者でもあるので、洋風にも反対することになり兼ねません。そこで思いついたのが、過去の役職、「神祇官」です。神祇官を復活させて神道一つにまとめてもらい絶対神としての天照大神をでっちあげようとしたのですが、その狡さが明治元年にいきなり「神仏分離令」がでて、神道を仏教伝来以前の姿にもどすと言う事よりも、仏教破壊テロの合図としてしまうのです。まさか、そんな命令程度で各地で廃仏毀釈が行われる騒動になるとは明治政府は想像もしていなかったと思うのです。当時、仏教は堕落していて国民にとって本当は宗教と言うより搾取勢力だと言う事が武士には理解されていなかったようなのです。江戸時代にはキリスト教の排除のために権力が仏教を悪用しました。仏教は、宗教である前に権力の手先に成り下がりました。権力のやり方は、寺請制度と呼ばれ、寺の周辺の住民はその寺の信者、檀家として登録することを義務付け、その管理簿として、宗門人別帳などをつくり、寺は檀家登録によって、キリスト教徒ではないということを証明する代わりに、冠婚葬祭の全てを寺が取り仕切るという独占企業になりました。そして、寺請制度の会員である檀家に、葬式や法事など様々な場面でお布施という形で金銭要求をすると言う事をしたのです。結果「坊主にくけりゃ袈裟まで憎し」と江戸時代では、幕府の庇護の下、堕落し暴利をむさぼる仏教を信仰の対象と言うよりは、搾取する敵として浸透していったのです。「坊主丸儲け」「地獄の沙汰も金次第」「布施の分だけ経を読む」「経も読まずに布施を取る」とまで揶揄し「くそ坊主」とまで言うほどに宗教者としての威厳も尊敬も失われていたのです。ですから、廃仏毀釈は恨みつらみで行われたという面もあるのです。廃仏毀釈は後々の汚点と言われるのですが、明治政府は神道を国教とし欧米のように一神教の真似をして、祭政一致という方針を取りたかっただけなのです。しかし、庶民に恨まれていた仏教は、あれよあれよという間に、廃仏毀釈という動きに飲み込まれていくのです。明治政府は神仏分離令神道と仏教を分離すると言う宗教改革を試みるのですが、思想が希薄だったために廃仏毀釈などと言う文化破壊だけになってしまうのです。とにかく権力の庇護は、仏教を堕落させ、基本となる庶民に嫌われていたという事です。同じ事が、権力に利用される神道も宗教としての精神を失い、戦後の国民の宗教離れに続いていくとも言えます。この廃仏毀釈のためにわが国の寺院が半分以下になり、国宝級の建物や仏像の多数が破壊されたり売却されたりしたとも言われています。それでも、天皇を中心とする国造りをおこなって西洋諸国に追いつこうとして、寺の領地も取り上げたりもしましたから、仏教は経済面から没落もするのです。1868年を明治元年とすると3年後の1871年ごろまで廃仏毀釈は続きました。ここで言えるのは、権力に利用された宗教は必ず腐敗するという事だと思います。国家神道もその後腐敗するのですが、日本人は氏神を含めた小さな宗教感覚を生活に組み込んでいますから、大きな統一した宗教を権力に押し付けられると宗教に危険を感じてしまうのかもしれません。明治維新後、今度は天皇は神で唯一絶対でしたが、その間にも廃仏毀釈を乗り越えた仏教ばかりか、八百万の神たちは生き残り、無宗教と言い放つ現代の日本でも延々と生き続けています。江戸や明示を礼讃することは多くみられますが、日本の宗教と言う面からすると、暗黒の時代とも言えます。宗教が権力と結びつくと結果として庶民の生活は脅かされるという事はこんなことからも分かると思うのです。昨日まで信じてきた寺を壊しに行った罰当たりな庶民が廃仏毀釈をやったのではなく、信心を失わさせた寺が招いた事件だったと言えると思うのです。

上座(かみざ)のマナーで飯を食らう人の話

 日本では、無礼講という飲み会でさえ、上座と下座が問われます。とにかく、偉い人は少しでも高い席に座ると言うのが常識で、儀式での席次は、イコール権力の段階を示すものとなっています。これは、中国の教えでもあり、ランク付けが気になる日本人の社会構造ランク付けの原点でもあります。日本では、厩戸王が制定したと言われる冠位十二階などから始まって順位はとても重要になりました。時代劇では、殿様が家来より一段上の席に着くのも、ひな祭りが段飾りなのも、そのせいです。元々、上座は、寝殿造りなどの建築物の、床の間や神棚があった部屋に座るときの作法から始まったとされています。ですから、一つの礼節としては伝統であり生活文化なのですが、住居がこれだけ変化し社会が大きく変わったのに、尺貫法よりも古い物差しを今でも持ち歩いて近代の乗り物にまで適合させようとするマナー専門家がいるから大変です。確かに、自分より偉い人だと思う人には、お茶を出すだけでも出入りする入口よりは、部屋の奥にお通しした方が、自然な心配りとして十分理解できます。しかし、床の間もない洋室や、現代の会議室、タクシーからエレベーターにまでマナーとして応用しようと言うのは、飯の種として文化を悪用して騙している人がいるとしか思えません。要するに、原点は、来客を初めとして偉い人への配慮という事ですから、礼を尽くすという事が大事で形ではありません。にもかかわらず、社会人のマナーですと言い出す人がいると、 まるでそれが常識かの如く襲い掛かります。図解入りでエレベーターの上座と下座を明示する本までありますが、他の客が乗っている場合はどうするのから、エスカレーターはどうするまで全く非常識なことまでがマナーになってしまいます。通常の会議室なら、トップが端に座り左右に部下を並べますが、来客の場合は、長い机に片側3名以上で座る場合は、中央の席が上座となるケースもありますなどと言い出します。「下座」「上座」の原点は、失礼にならない事ですし、気配りの範囲で、日本家屋文化の独特な考え方で世界的に見ても珍しいとされています。洋風住宅の中では、床の間を作らない事の方が多いし、上役や偉い人が個人宅へ訪問することも減少しています。床の間がある家を持っていて偉い人が来ることもあるような社会的地位にある方たち同士の、個人的な訪問での受け入れのマナーならいいのですが、下々の者までが、生活に適合させようと無理やり解釈することが間違っていると思うのです。生活用品などはどんどん合理的に変化しているのですから、精神風土も合理的な変化が必要です。成育経験の中で経験してもいないような事は、自然と消滅しても誰も困らないのですが、飯のタネにしたい人があたかも重要なことのようにいう事が問題です。例えば、包む・運搬するに便利だった、風呂敷は、すでに生活の中から失われ、その包み方や縛り方は知らない人の方が多くなっています。同様に、生活の中にあった様々な結びと言う文化もなくなり、ちょうちょう結びが出来なくても恥ではありません。第一、着物を着ていることもなくなり、帯を結ぶことも出来なくなっています。ましてや袴なんて履いたこともない日本人が大多数です。下駄を履いてまちを歩くとタイル張りの床など今日の建築材では滑りやすく歩くのも大変です。だから、席次は、ビジネスマナーと偉そうに語る知ったかぶりこそ、無作法な人と思うのです。そんな人たちは、作法を知っていると言うより、作法を飯の種にしているだけの人と思うのです。元来日本の作法は神への畏敬の念から始まっていて自己の利益のために形を整えるという事ではなく、尊敬できるからこそ礼を尽くそうと言うものだったはずです。ですから、マナーは形ではなく生活の中で常に変化し合理化されていくもので儀礼とは違います。逆に儀礼は形が大事で合理性は追及されません。儀礼では上座どころか順位制を含めたとっても面倒くさく細部に亘る仕切りが重要です。生活の場面では合理性が追及されて変化に合わせたマナーこそ必要で、上座など気にするより話の内容に重点を置くべきです。

 

宝塚音楽学校、形から入る形が歪まぬのを願う話

「先輩が利用する阪急電車への一礼、先輩の前での決まった表情、先輩への過度な提出物―。タカラジェンヌを養成する宝塚音楽学校兵庫県宝塚市)が、生徒間に受け継がれてきた不文律をなくした。上級生が下級生を一対一で指導する『伝統』もあったが、下級生に負担が生じていたとして廃止に踏み切った。」という記事が新聞に載りました。一見なんだこれ的な内容で、宝塚に興味のない人からすると何が起きているのかと思う記事です。宝塚歌劇団は有名で、誰もが知っていて、その歌劇団に入るには相当の競争率を勝ち抜いてこの音楽学校に入学しなければならないと言われています。ようやく入った学校でこうしなければ退学だと言われればもう何でもするしかない環境で洗脳されていますから内部告発が原因とも思えません。それに、まず形から入って心を育成するという日本的な育成方法もあり、伝統としての教育方法が一概に悪いとも言えません。職人芸のように、見て覚えろ、技を盗むという事も芸能ではありますから、寮生活で生活の方法などを先輩が後輩に一対一で教えるというシステムの方が、まだ親切だとも言えます。調べると、宝塚音楽学校は2年制で各学年に40人在籍するという小さな集団環境で、ほとんどの人が寮生活者という事ですから、対人関係は相当濃厚で制度の長所と短所が両極端に表れると言うのも当然で、先輩が教え後輩が従うという規律なら、感情的不適合があれば、一対一の上下関係は、ボスと子分並みになってしまう危惧は確かにあります。「学校側は上級生の指導に行き過ぎたところがあったとして、一対一の指導も昨年春に廃止した」という事ですが、伝統としていた柱となる教育方法は、外から批判もされても、当人たちには誇りである場合もあります。他と違うという事とこれがあるから自分たちがあると言う感覚の持ち主たちには、逆に自分たちが否定されていると受け止めかねない対応とも言えます。案外外部からの批判で変更されると、否定された伝統が、変形して陰で陰湿に残っていくこともあります。何故なら、それが宝塚らしさを積み上げていく方法であり、その方法だから出来上がっていた組織だとする自負や自尊心を持つ人からするなら宝塚でなくなると言う危機感と、壊されてしまうと言う被害者意識によってより強固な伝統を守ろうという意識が醸成されてしまうからです。そして、形は同じでも中身が違う組織になってしまうと言う不安と大事なことが継承されなくなると言う危機感にもなります。学校は、「舞台人を目指す同校の生徒としての姿勢や規律を、先輩が後輩へ教え伝えてきたが、近年、部活動などでの行きすぎた指導や、ハラスメント(嫌がらせ)に対する社会の目は厳しくなっている。」「子どもたちの気質も変わっており、生徒の自主性を尊重しつつ、時代にあわせて改善を進めている」と建前としての説明をしていますが、寮生活も、宝塚歌劇団への道もなくなったわけではありません。ですから、その伝統で育った集団に後から入っていかなければならない、今の学生にとってこの伝統を知らないという事は、その伝統で育った宝塚歌劇団に入っていくことは恐怖でしかないと思うのです。先輩と後輩の関係など教員が教えることなど出来ません。形から入っていく組織では、本質を理解させることはとても難しくて育成方法もその組織ならではという事も珍しくはありません。そ結果として時代遅れと言われることもあります。しかし、その組織に参加する人間の時代背景に応じた成育歴が組織の伝統になじまないという事はあまり関係ないと思うのです。違う環境育ちだからそれが新鮮に感じ、本質へと向かわせることが出来るという事も言えます。洗脳という言葉があって宗教などでも悪い意味に使われますが、社会の隅々の組織は、洗脳によって成り立っています。民主主義だって一種の洗脳であって、未来により進んだ社会になれば否定される事だってあります。ですから、その組織を第三者が見て異様であっても、そこに参加する者が、適合できているなら一概におかしいとは言えません。例えば、高野山奥之院の御廟には空海が今もなおそこに生き続けていると信じられ、1日2回食事を届けています。1200年もの間。誰が考えても、1200歳になる人間はいませんし、ご飯を食べるわけなどないのに大人が真面目な顔で粛々と食事を運ぶことはおかしなことです。しかし、信者にとっては大事な事であり普通のことです。それだけでなく、自慢であるという事でもあります。宝塚音楽学校が、何を変えたかったのか、この記事ではわかりませんが、時代に合わせると言っても、変えてはならない形を変えてしまうと歪んだ形のままに保存されそれが変質してしまう事もあります。その時代の世相に合わせるのもその一つの方法ですが、間違えると退廃的になってしまうこともあります。時代が変わっても変えないことで、飛躍できる事業を潰してしまう事もあります。宝塚音楽学校のことなど全く知らなかった素人の知ったかぶりとはなりましたが、組織を変質なく世代交代していくことは、本当に難しいことだと思うのです。

就労猶予・就労免除の話

 過去に、障がい者は、教育を受ける権利がありながら、就学免除・就学猶予として差別されてきました。その理由は、費用が掛かりすぎるからです。今の特別支援学校は、普通学校の何倍も費用が掛かっています。障害が重いクラスでは正確ではありませんが5人に1人ぐらい教員が配置されます。進んでいる普通学級体制でも生徒30人に教員1人がやっとですから、教員の人件費だけでも6倍も掛かることになります。つまり、人権はお金がかかるのです。だから長く、就学猶予と就学免除という事を平然と続けていました。同様に、障害者の就労にも、実はお金が掛かるのです。ですから、今も就労猶予と就労免除の政策が続けられています。

日本国憲法第27条1項は、「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」としています。 これは、「国民の三大義務」のうちの一つで、他の二つは「教育を受けさせる義務」と「納税の義務」となっています。この憲法通りに読めば、障害者も働けと言っているのですが、働かせる方が金が掛かるので、納税しなくていいから、働かなくくてもいいから、免除するから自分のことぐらいは自分で何とかしてねと言うのが今日の政策です。つまり、納税できる障害者にすることが政治の義務ですが、障がい者が働きたいという希望があっても働けるように整備するには膨大なお金が掛かるから、費用対効果が低いから、義務を果たさなくていいから、保護してあげますと言い、それでも働きたい人は、自立と言う言葉に変換して自分の努力を強調しているのが続いています。障がい者差別をなくそうという事を誰でもが言いますが、福祉関係者であっても、障害があって働けないのだからそれは差別に当たらないと考えています。つまり、運転免許を持っていない人を運送会社が雇わなくてもそれは差別ではないという論理です。この論理で言うと障がい者が出来る仕事がないから雇用しないも差別ではなくなります。同じように、社会には、出来ないことを強制する方が虐待で、出来ないことを認めて「やらせない事」は差別に当たらないとして社会の様々な仕組みや職種などが障がい者の排除を正当化します。障がい者が働くことは本当に必要なのか。生活費を保証すればそれでいいことなのか。となると差別に反対している人でも意見が分かれます。もともと障がい者が働きたいと希望すること自体が、邪魔になる、足手まとい、返って手間がかかると邪険にされた経験から、障害者でも訓練すれば働けるを証明するために施設で訓練するという時代が続きました。現代の制度もその延長にあります。実際、就労は会社にお願いするというのが現実です。学校で実務実習をしたり十分訓練しましたから、お世話掛けますが面倒見てくださいが基本になっていますし、何かあれば辞めさせられても文句は言いません方式が現状で、障害者が労働組合に守られることも限定されています。考え方として、障害があっても働いてもらうではなく、障害者でも働けるを実現することが福祉関係者の原点になっていますから、障害が重い人は、働くことが出来ないのに、働かせる必要があるのかとなるのは当然です。一日をのんびり楽しく暮らす方法があるならそれでもいいのではないか。それが障害者の権利を守る事ではないかと考えます。ですから、工賃向上や就労を積極的に行う考え方の施設は異端とされるのです。福祉事業は、障がい者の為なのだから、障がい者本人の調子に合わせた程度の仕事ぶりが適当で、顧客相手に考える儲けや工賃向上を優先することは否定されます。逆に、仕事を通じて自立できる障害者は、福祉事業を嫌っていますし、福祉事業との関わりを持ちません。結果として福祉事業の対象となるのは、重度者であり社会基準から見たなら働けない人と言うことになり、働けない人を労働者にすることよりも、働いているという幻想が抱かれる程度の仕事提供が適切であると考えらてしまうのです。しかも、工賃向上といっても月額3万5万の話であり、障害者にとって幸せなのかと言う疑問とお金よりも大切なものがあるという思いや職員が生産を優先して障害者支援が疎かになると言う事の方が問題だともされます。そこで「働きたい」と言う障がい者の要求を認めるべきと反論しても、「働きたい」が一時間なのか、自己満足の範囲なのかなどと論争になれば、現状の生活介護施設で散歩していても「働きたい」を実現しているという事になってしまいます。障害が重ければ働けない、自立と言っても限界がある。と現実を並べ立てます。だから、言わざるを得ません。憲法にだって働かせろと書いてあるのだから、就労猶予や就労免除は、差別の繰り返しで、働けないではなく、働けるようにするにはどうしたらいいかを具体化しなければ差別が続いているにすぎないと。企業は罰金と雇用経費を天秤にかけているだけですし、地方の行政は、とにかく障害の重い人をどこかの福祉業所を押し付ける施策にしがみ付いていることが見られます。障害者差別をなくそうというのなら、国民として教育が受けられるようになったのなら、次は、国民として働いけるようになることだと思うのです。

貞観政要は、支配者たちの凡人を操る手引書の話

貞観政要と言う偉い本があって、徳川家康も愛読していたなど、統治者にとって非常に大事な本であると宣伝され、いまでも大企業の経営者が愛読しているとまで褒められています。この本は、唐の太宗の「貞観」時代がとても平穏だったので帝王の見本として、帝王学の教科書とされてきたという触れ込みです。内容はと言えば、皇帝とその臣下の会話なんですが、そこには君主としての心構えやあるべき姿が描かれており、帝王学の基本の書たる所以とされています。ところが、そんな立派な先代がいても唐はやがて衰退しますし、座右の銘として愛読したリーダーたちもすべてうまくできたわけではありません。この本を読めばわかることは、太宗の時代がよかったという懐古趣味的にのちの人が編纂したもので太祖自身が編纂させたものではありません。ですから、歴史から学ぶという意味では有効ですが、これこそが帝王の基本だと思ったら間違いだと思うのです。権力を握るには戦いがあり相手を蹴落として上り詰めなければなりません。それには、本人だけでなく周りの多くの群がる欲張りたちも引き連れています。勝敗はまさに時の運で人間の力ではどうにもならない条件と環境が組み合わさって権力者が決まりますから、こうしたからうまくいったという話を何べん聞いても、それはたまたまうまくいったにすぎず必勝の条件にはならないと思うのです。しかも、過去の戦法や統治の方法は誰でも学べますので裏をかかれることもありますし騙されることも出てきますからそのまま役に立つという事などありません。つまり、桶狭間の戦いは二度とないし、関ヶ原の戦いも二度とないという事です。それに日本では、蹴落とされた人々の怨霊がまとわり就くと言われていますから、善政を敷かなければ祟りがやってきます。そんな時、この本の気に入ったところだけこれいいねという程度に使うならいいでしょうが、リーダーがあこがれて選択する要件になるとは思えません。何故なら、結局権力者は自分で判断する時に、参考事例など山ほど知っていてどれを選ぶかの選択などしている余裕もなく即決していかないと遅れをとってしまうからです。そもそもこの本は、リーダーになったらこうすべきと書いてありますが、読者がリーダーとしてふさわしいかの判断はしていません。一般的に、リーダー論を語る本は、人民を率いていく人が必要だから始まるりリーダーは不要だという事は論争にもならず、人民という烏合の衆には指導する人が、リーダーがいなければならない、統治が必要だと決めつけています。人間は国を作り国同士の戦いに勝つには強いリーダーが必要だが前提条件ですから、国を作った時から、上下関係が必要で貧富の差が必要で、能力評価が必要となるのです。そして、この本は、小さな会社であろうと一国であろうと統治者が必要でその統治者として愚民を管理し統治するにはどうするのがいいかという心得となるのです。心得の基本は、統治することは必要だが、反感を買わないようにするにはどうしたらいいか、人気をとるにはどうしたらいいか、相手の痛みや苦しみを知って対応した方が効果があるなどで治めるための技法を展開するのです。だから統治のために自分が必要な人間であるという事、人の上に立つべき人間であるという自己満足の確信が必要です。同時に、皆に認められているという根拠の正当性の言い訳に使えるアイテムでもあるのです。権力を掌握した人は、誰もが自分が正しいと思い込む一方で、権力のざの正当性について不安を感じています。今日では、選挙に選ばれたと胸を張って言えますが、武力で力ずくで奪い取ったというのも言いにくいものですし、皆に推薦されても継体天皇の様に20年も都に入れなかったという事もあります。天から授かったとか、由緒正しい家系だとか、日本の天皇が認めたとか、民衆に支持されているとかとにかく正当性の根拠が必要です。過去には殉死と言って権力者の死に殉じて側近も殉死する習慣がありました。権力の周りには一心同体の様に見えて、複数の同船異夢のメンバーが餓鬼のように群がっています。貞観政要は、人民のために頑張って統治することを語ってはいますが結局は、権力の座についている人間たちの権力維持のためのマニュアルブックにすぎません。思想書でも哲学書でもありません。帝王学は支配者としての心構えであって、働く人から分け前をピンハネする仕組みを効率よく実行するための一つの方法にすぎないと思うのです。ですから帝王学の重要な書物であるという事は、凡人たちを操る手引書としか思えないのです。

さいたま市はプロボザールの意味を知らないの話

   最近の流行で、行政は業務委託をするときに、何でもプロボザール方式にしたがります。指名指定より公平で公正な感じがするのでしょうが、基本の基としてプロポーザルは入札のような金額ではないけれど、企画提案の競争ですから、複数の提案者がいて比較検討できる条件が最低でも必要です。つまり、建築で言うと入札と同じことですから、上限下限の評価基準があって、競い合う複数の応募者が いなければ成立したとすべきではないという事です。最低の評価基準に至らなければそこで失格であり、複数が前提ですから既得権者しか応募がなければ再募集というのが公正という事の基本と考えます。この度、さいたま市の相談支援センターのプロボザールが行われ、その結果が公式に発表されましたので中身を確認いたしました。すると、形はプロボザールでしたが、中身は既存者の継続のためのアリバイ作りのごとく公正とは言い難いものでした。相談支援センターというのは、障がい者が福祉の制度をどのように活用するかや利用の仕方、個人的な悩みなどを相談する場所で有資格者と場所さえあればかなり簡単に開設できる相談支援事業のリーダー役を行政がお金を出して業務委託するというのが相談支援センターです。ですから、相談支援は、資格者と場所さえ確保できれば事業の開始が出来ますが、リーダーとしての役割の相談支援センターにはさいたま市補助金を出して運営するものなので、さいたま市の10区に原則1か所設置されるというものです。そのプロボザールの結果がインターネットで公表されたという事です。そして判明したことは、10区のうち7区は現在委託を受けている法人のみの応募で評価に関係なく継続受託となったとなっています。対立応募のあった3区も既存となり、10区全部が既存の委託者で決定したという内容です。親切なのは、評価に当たっては点数化しその得点まで事業所ごとに発表してくれたことです。そこで分析させていただいたのですが、この評価者の半数が、各区の相談支援担当部署の評価であるという事です。行政ですから担当者個人が評価することはあり得ませんので、推測でも区が区の既存相談支援センターの業務評価をしたと考えることが出来ると思います。そこで整理して結果を見ると、1740点満点(何故かさいたま市が知的身体と精神を分離していることから)で最高点が1513点、最低点が832点という事でした。この数字を100点満点に置き換えると、最高点の事業所は、87点で合格、最低の事業所は、48点で合格という事です。これは、現在行われているさいたま市が業務委託している相談支援センターの成績表でもあるのですから、住民で障がいのある方にとっては移動手段もありますから選択の余地もなく、区の職員でさえ50点に満たないと評価しているリーダー相談支援センターに行くしかないという事です。おかしいですよね。さいたま市が業務委託して5年以上経過しているのですから既存事業所の市の職員の評価は概ね大きな差が出ないように指導監督する義務があり、どこへ行ってもほぼ同じという事、これが公平というものです。多少の違いはあっても、どこへ行っても行政サービスは一定のレベルが維持されていなければ不公平だし、酷いところに業務委託していたなら公正とは言えないという事になります。この様な、格差が生ずるというのは、明らかにさいたま市の福祉相談業務の怠慢でもありますから、少なくとも、書類審査で基準を設けて失格になるべきですが、合格なのです。相談支援センターはリーダー的役割がありますから、職員の基準は、相談支援員の資格は当然で、精神福祉士や社会福祉士などが条件の、正に専門職の集団と言えます。その専門職の集団に対して、行政の評価で、5割を切るなんて事が現実にあっていいのかという事です。しかも、この評価表では、新規応募者には0点とハンディーまでつけて、既存事業所には60点というボーナスが加点されるという謝礼的な得点までつけているのに50点に満たない事業所が存在し且つさらに5年間受託できたという事です。障がい者の人生に関与するという仕事でありながら、90点台はいず、80点以下も3事業所もあり50点以下を加えると、10区の中で実に4割の事業所が改善しなければならない状態にあると言えることです。この結果から見えることは、何のためにプロポーザルをやったのかという事です。本来ならこんな課題を解決するためにプロボザールを行って新しい改善をしていく為に広く公募するはずなのに、既得権者しか集まらず競争相手もいないような中で、酷い得点でも、既定通り継続できるのですから、不幸なのは成績の悪い落第相談支援センターにしか行くことが出来ない障がい者という事になります。さいたま市は、この結果を分析しているのかどうかはわかりませんが、現状維持が目的なら、公正に決めましたと言う証明だけの為に税金を使うのはやめた方がいいと思うのです。このことの他にも、法の精神を踏みにじる、精神と知的の分離したり、応募で相談支援の育成を求めながら結局、相談支援センター自身が育っていないことを証明しているなど、分析すると次々に出てくるのですが今は、ここまでとします。