知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

所作の話

 お茶とか、能とかに必ず出てくるのが所作と云う言葉ですが、最近はあまり使われている言葉とは思えません。単純に言えば、「立ち振る舞い」「動作」「身振り」「仕草」なんて類義語があるように、自分の動きのことなのですが、自由な動きではなく、その目的を達成するための動きと言うことでもあります。ですから、武芸だと型とか流派の奥義的なものなのですが、芸術・文化的なことでも使用されることが多いと思います。ただ、この言葉は和風と言うことでは、頂点にあるのですが、ほとんどは感性的な言葉が前後左右上下について、なぜそうすべきなのかの回答はありません。むしろなぜかの説明をすれば、どんどん合理的になって形だけになりその形さえも透明になってしまうほど、感性的です。所作の奥義は、仏教用語の「身口意」で、体である身、言葉である口、心である意を意味しており、この身口意が総合されて形となったものが、その流派や芸の所作でもあるのです。ですから、その芸や文化の神髄を表す動作が所作ですから、その所作の上達こそが重要なのです。つまり、和の心と言う言い方の、表現は所作をもって体現されるということです。その為、所作は形から入って、修練によって形に、神髄を覆いかぶせていくということが、本筋だと思われるのです。

歩き方、座り方に立ち方、礼や物の持ち方の美しさによってその奥義が体現されます。弓道や剣道、空手などでも、動作の最高は所作ですし、相撲の四股なども所作と言われます。ところが、形は見れば分かるのですが、所作として美しいかどうかの判断など部外者には分かりません。例えば、弓道、さっさと弓引いて射なければ戦場じゃ殺されちゃうよとなってしまうし、茶道なら、もったいぶっているけど粉茶グイッと飲むだけと言えばその通りだと思うのです。能なんかは、日本の古典でなんとなく威厳がありそうだと先入観があるからじっと観ますが、仮面劇なのに動作が鈍いと言えばその通りだとも思うのです。もっと言うと、奥義を極めようとする探究者の気持ちなど部外者には分かりませんから、自分が理解できる範囲以外は、興味が持てるものか持てないものか程度の評価しか出来ないものです。その道を究めた人なら、その凄さが分かり伝わるものかもしれませんが、言葉では表現不能な所作の美しさを凡人に説明できるはずもありません。例えば骨董品。その価値は数字として金額として表され初めて反応できますが、国宝だって何の説明もなく普通に人の前に出せば、まさに二束三文と言う程度の価値しか評価できない事も起こります。どんなものもその価値はその道の精通者には確認できても、誰もが確認できるわけではありません。特に、科学が進んだ現代では、見える化という視覚で確認することが取り入れられ視覚的判断が結論になっていることがみられます。ですから所作の価値など考えることもなく所作の存在さえ見ることはなくなっていきます。和風が流行っていても、所作にたどり着くことはもはや困難です。見えるものの中に求められた所作は、見えるより奥へは行かないという見える化によってそこまでで終わる時代を迎えました。大阪の文楽のように、見えない所作に税金を投入しても無駄とバッサリ自治体の支援が減額されました。つまり、日本風の見えているものの中にある本質を見ようという感覚はもう必要ではなくなってきたということでもあります。古来の信仰であるような、山ははっきりと見えます。そこには神がみえますは嘘つきになってきました。見えないものを探すのではなく、見えているものの中にある所作はもうすぐ誰にも見えなくなる時代が訪れようとしているという事かもしれません。

去勢で性犯罪再犯防止の話

 ナイジェリア国のカドゥナ州の決定で、レイプで被害者が14歳未満の場合、有罪になると去勢手術の上で死刑が執行され、被害者が14歳以上の場合は、去勢手術の上で終身刑だというニュースが先日流れました。驚くことに現在でも性犯罪の刑罰として去勢を導入している国は他にもあって、チェコでは暴力的な性犯罪者に対し、自由意思(刑罰としての強制ではなく)で去勢手術を受ける選択肢を与えるというのがありますし、米国の複数の州では、性犯罪の予防としての去勢刑は、被告人による懲役刑との任意の選択として執行されています。多くの場合には薬物注射による化学的去勢(男性ホルモンであるテストステロンを薬物で低下させるもので、効果は永続的なものではない)とのことですが、テキサス州では、手術による、睾丸切除も認められているとのことです。去勢と言う考え方は、騎馬民族や牧畜民族など、動物を取り扱う民族ではごく普通の考え方で、特別なものではありません。それは、家畜の雄に対して去勢すると、従順になり命令に従いやすくなることを有史前から知っていて飼育の時だけで無く、戦争に使用する馬などはほとんどが去勢させられていたと言われています。そこで、同じ人間も去勢すればという発想で古代には、奴隷の去勢をしていたとも言われています。それらは罰としての去勢ですが、中国では、逆に、皇帝や王宮の高級官僚(宦官)などの権力を有する役人を志願して自ら去勢する「自宮」が、盛んになり隋の時代には、去勢が刑罰にならなくなったとまで言われています。中国で罰の頃の去勢(宮刑と言う)を受けた人物では司馬遷が有名ですが、明代の政府の公式記録に「今や愚民は争って自分の子や孫を去勢して、栄華を夢見ている」と書かれているほど高級官僚(宦官)になる為に去勢したと書かれているそうです。また、宗教では、仏教・キリスト教に関わらず教義の中で明記されていないのに、宗教に身を置く者として性欲が修行の妨げとなると、自ら去勢する僧侶も多かったと言われています。古代キリスト教最大の神学者と言われている、アレキサンドリアの教父オリゲネスは、性欲を絶つために自己去勢したこと言われているそうです。職業的には中国だけではなく、教会内の賛美歌を歌うために、成人した男性歌手では出せないソプラノパートを担当する歌手として変声期前の少年時代に去勢された男性歌手をカストラートと呼んでいたようですが、カトリック教会に女性信徒が出入りでき歌も解禁される19世紀になって禁止されたと言われています。一方、性欲を減退させる罰として日本では、法然の弟子の二人が、女犯の罪で去勢の刑に処せられたとの記録があるそうで、現代では、昭和20年代に、千葉市にあった「旭療護園」(既に廃園)という精神薄弱児施設で、性的非行・犯罪を犯した10代後半の4人の男子入園者を、極秘裏に去勢して事件となったり、時代は違いますが、千葉県船橋市児童養護施設で起きた恩寵園事件ではマスターベーションなどに対する体罰の目的で男児2名が当時の園長によって性器の一部を切られる事件もあったそうです。去勢によって、性欲の減退効果があったのかは分かりませんが、去勢と言っても、睾丸を除去する方法、陰茎を切断する方法、そしてその両方を伴うものなどがあるという事で必ずしも全摘を指してはいないようです。効果についてニューヨーク・タイムズ紙が、2005年の研究を引用する形で、性犯罪を常習的に犯す人物が去勢された場合、再犯のリスクが下がると報じたと記録がありますがどの様な虚勢がどの程度効果があるかは不明です。しかし、インドネシアでは2016年、14歳の少女が集団レイプされ殺害された事件を受けて、小児性愛で有罪となった場合、化学的去勢、終身刑、死刑などと、より厳しく罰する法律を可決させたとの報道もありますから、性犯罪に対して去勢は、罰としての効果を認めている人も多いのかもしれません。蛇足として、中国では去勢した性器を大事に保管することが証明書として必要だったようですが、動物の性器が強精剤として食されたりしていましたから、当然、人間の性器も貴重品扱いで取引されたりもしていたようです。しかも、思春期以下の少年のものが好まれたようで、蘇生しない身体機能を強精剤として切除された少年たちは完全に被害者としか言いようがありません。本題に戻って、現在でも性的被害は繰り返し報道されていますし、再犯率が高く、加害者の一時の欲望のために、被害者が一生の傷を負うということですから、性欲とそれに伴う身体機能を消滅させたり減退させることで性犯罪が未然に防げるのなら去勢刑も検討の余地があると誰もが思うことかもしれません。実際に、一方的な性被害で、事件になっているのはごく一部とされていますし、被害者の立場が極端に弱く保護されないという事実もあります。被害者に100%落ち度がなく、通りすがりの強姦にあったとしても被害者の方が、負のレッテルをその後ずっと負わなければならないのが現実です。一般の感覚でも、傷害事件の被害者が入院したなら人は見舞いに行きますが、性的被害で入院しても、見舞いには行きずらいものです。性犯罪は意外と特殊が高く、被害者が社会的な加害に遭うということも起きてしまうだけに、加害者への制裁は再犯の抑止効果が充分見込まれるものであることが必要だとは思われます。多くの犯罪には、貧困などの社会背景なども分析されることもありますが、性犯罪はやはり単なる、個人が自己の欲望を抑制出来なかったことで発生しますから、二度と再犯にならない手段で罰することは必要だと思うのです。被害者に、一生の傷を負わせるのですから、犯人も一生の傷として、精巣を残すなら去勢も負うべき罰なのかとも思うのです。現在では、人権により加害者の方が守られて、被害者はむしろ二次被害まで受けているという性犯罪に関しては、意識の向上だけでは再犯を防ぐことにはならないという意見ももっともだと思うのです。

便乗差別意識の工賃を下げた法人なんか消えてもいいの話

 福祉情報の中に、コロナウイルス被害として、福祉事業所が仕事がなくなったので、利用者の工賃を、3万円から3千円に下げなければならなかったので保証を求めているという資料を見ました。被害者が障がい者であるという事を前面に仕立ててあたかも社会福祉法人までが被害者面する社会福祉法人なんてつぶれた方がいいと感じました。仮に利用者定員が50人だとして、3万円に50人をかけて、1か月で150万円、1年で1800万円の工賃支給あると言う事です。です。施設は、授産施設の時から相手が倒産して未収金が発生しても利用者に迷惑を掛けないように、あるいは景気の動向により受注が激減した時に、利用者に動揺を与えないように、工賃の危険準備金の積み立てが出来る様になっています。しかも、1年に工賃として1800万円払える収入があるのですからその5%90万円程度を毎年積み上げていけば、5年で450万円程度の積み立てが出来、3か月は工賃を下げなくても持ちこたえられるはずです。それぐらいの経営感覚は社会福祉法人だとしても必要です。工賃は、その時に働いていた利用者のものですから1度に沢山積み立てに回すことは出来ませんから、ほんの少しずつ失業保険並みの保証が出来る様にして置かないと何かがあった時に障がいを持つ利用者を守ることなど出来ません。この法人はなんの対策もせず。一番最初に荒波にさらわれてしまうところに利用者を置いてきぼりにしたとしか思えず、納得できないことです。そしてもっと、怒ってしまうのは、この法人では、職員の給与も、カットしたとは書かれてい無いからです。自分たちの給与はカットされないのに、そこに働く障がい者は90%カットなんて福祉法人が行ってはならない行為だと思うのです。その行為は、福祉に従事しながら、障がい者差別を平然と行っているとしか思えない行為です。法人が、給与カットをしないのは職員には生活があるからとか、労働法に守られているからと言うかもしれませんが、工賃3万円の利用者だって、生活が掛かっているということがなぜ分からないのかと言うことです。もし仮に仕事がなくなったから収入がなくなったからと、企業が最初に障がい者の首きりを行ったらこの施設の人たちは仕方がないと思うのでしょうか。施設の収入がなくなったから、どうせ工賃は生活がかかっていないから10分の一でいいなどと判断する社会福祉法人なんておかしいと思うのです。障がい者の自立を考えた時、金額は少なくても障がい者が自立生活を計画する中では生活の掛かった非常に重要な収入です。ですから、工賃が下がらないように努力するのは法人の義務です。仕事がなくなったのだから仕方がないでしょと、抗議も出来ない利用者の工賃を真っ先に下げるなんてあまりにも無責任です。こんな法人に限って、普段は障がい者の自立を応援している、工賃の努力をしているとアピールするのです。緊急事態になっても利用者を支えている社会福祉法人から見れば、化けの皮がはがれた様な状態です。障がい者の出来る仕事なんかありませんと言う企業に何でもいいから雇用しろしないのなら罰金を取るというのが障がい者雇用率です。つまり、仕事がないのなら作ってでも雇用しろと言われているのと同じです。それでも多くの企業が努力して雇用しています。このコロナの時期に仕事がなくても障がい者を解雇したなら非難されるかも知れないと我慢している企業もあるやも知れない中で、福祉事業者が真っ先に利用者の工賃を下げたと聞けば、いい口実にさせられてしまいます。福祉法人こそ、この事態に利用者を真っ先に守らなければなりません。出来ないのなら福祉の旗を上げるべきではありません。被害者面するべきではありません。こんなやり方は、障がい者を成人の1人としてみていない差別意識があるからですし、組合を作ってでも抗議できないことを知っているから出来ることなのです。それはみんな見下した意識だと思うのです。利用者に対して、工賃を簡単に下げてしまうことが出来るのは、新型コロナにうまく便乗した、便乗差別としか思えないのです。だから、こんな社会福祉法人なんか消えてもいいと思うのです。

 

障がいクラス分けに憤る人の見世物観の話

 障害の程度を公平に分類することなど出来ません。障がいほど個別性が高く違いも大きいのに、パラリンピックでは戦わせるために、何とか公平感を出そうとクラス分けが行われます。つまり、競技として成立させるためには、どこかでラインを引かなければ不公平な戦いになるとのことから、大きくは男女、健常者と障がい者となって、障がい者はその障がいの程度が近い人で戦わせるということなのです。その結果、陸上100メートルは男女29種目もクラス分けが出来てしまいました。そこには、健常者であってもほんのちょっとの精神心理の強弱が競技に影響するように、障がいの程度は勝敗を大きく左右することになるからです。こんな事例が新聞には紹介されています。パラ水泳のある人は最も軽いクラスにいたので東京パラの選手としては出場も危うかったのですが、進行性の病気だったので、検診により最も重いクラスに変更になりました。すると同種目のタイムとしては世界ランク2位になりパラ出場確定となりました。ここには、本人の努力とか障がいを克服してなどの心地いいテレビ番組によくある仕立てられた障がい者像とは違って、ちょっとした障がいの解釈が、パラリンピックに出られるか、メダルを取れるか程の違いがあることを証明しています。最も問題なのは、障がいの程度を戦わせるために分類しようということです。障がい自体が個性的で類似者を集めても違いが大きいのに、出来るだけ戦力が均等になるようにクラス分けしたいというのは、見世物として戦わせるということがあるからです。勝敗に拘らないスポーツとしての競技ならそんなことは必要ではありませんし、不公平だと目くじらを立てる人もいません。本来、障がい者をそのスポーツの種目のために公正にクラス分けすることなど、出来ないことであり、出来ることがいいことでもありません。パラリンピックと言うニンジンに群がる障害者に、少しでも自分より障がいの重い人と闘っても勝てばいいというだけになってしまいます。新聞に紹介されたイギリスの車いすバスケットのエース選手は、程度が軽いく資格を失うという通告に、「最終手段として足の切断も選択肢にある」と言ったとされていますが、スポーツの目的など飛んでいます。病気があると言っても、自分より、障がいが重い人と闘って、勝つ為に自分の足を切断してもいいなどと言わせるような環境は間違っています。つまり、障がいになっても、スポーツをすることで身心の健康を保ち、スポーツによるリハビリ的効果により障害が少しでも軽くなる事を目指しているはずなのに、軽くなったと判定されると今までのスターが一気に出場資格なしや補欠になってしまうことに抗議するというのです。良くなったことを喜ぶのではないのです。逆に疾病が進行する障害をかかえている人は、症状が進行したことでメダル獲得に近づくこともあるといいます。でも、それはメダルが取れたらの話で、競技者としてではなく、生活者として考えれば、できないことが増えていくことであり障がいが生活を圧迫していくことでもあります。武士道などとまで言われかねないスポーツの中で、日本の陸上のある選手は「障害の重いクラスで戦いたいと思うのは自然な考え。メダルがある選手とない選手では価値が違ってくる」と話すという記事があります。これが本音なのかもしれませんが、競技者として自分より弱い奴と闘いたいと思うのが自然だなんて思いこむほどにパラリンピックのメダルは人を変えてしまうのです。そんなにメダルに価値があるというなら、クラス分けを細分化して3人しか有資格者が居なくなるようなクラス分けにして、みんなにメダルを与えればいいとなってしまいます。それは、障がい者の子供の世界です。パラリンピックのクラス分けによって出場資格を無くした選手の努力が台無しになると選手は憤っていると新聞記事では紹介していましたが、そんなことは初めから選手も知っていたことですし、選手こそ、障害の種類や程度によって有利不利が生じないようにクラス分けを行うことが出来ないことを知っていたはずです。結局パラリンピックでは、障がいが重い人が軽い人の栄冠のために土台とされてしまうのです。そこには、勝敗を決めるという障害者見世物小屋の営利が深く関わっているからなのです。ただ、同じ日本の選手でも、「体が動くのに、障害の重いクラスで勝とうとは思わない。それはずるいことでしょう」と話し、「最終的には健常者と戦いたい」と言う人もいます。障害の軽い重いは、本人が選ぶことの出来ない疾病です。そんな人たちを敢て戦わせて見世物にするから、勝ちたいという思いが、相手が少しでも障がいが重い方がいいと思ってしまう選手を作り出しているのです。パラリンピックの、営利活動が強化されるほど、勝ち負けがスポーツの本当の目的を失ってしまっている事例になるのです。

 

母親出てきてこんにちはの話

   機会があって、高卒1年半の職員がうつ病になったことで、二人の母親と面談することになりました。二人の娘は、同じ部署で、仲良く二人で連れ立って訪れた病院でうつ病の診断書を貰い、事務に提出しましたので、この後どうするのか尋ねると、事務がやり方を教えてくれない、教えて欲しいと言うので、医師がどんなつもりでこの診断書を出したのか良く聞いて下さいと伝えたら、後日それぞれの母親から、まだ勤め1年半程度で詳しいことなど分からないのだからどうしたら良いのかちゃんと教えるべきだと言うので、行動は本人達が起こしたことだし、申請方式だから、何を申請したいのか明確にしてくれないと答えようが無いと回答しました。すると、すさまじく怒って、病気になったのはそっちの性で、こっちは被害者なのに何という態度だと言う調子で、一人の親は電話の側に控える娘に何度も確認しながら、話したことまで聞いていないと言い出すので、話したときの二人と面談して確認すると言うと、母親が、私も行って良いですかと聞くのでどうぞと返しなから、父親まで来てくれれば丁度良いのにと思いました。当日は、母親達はそれぞれに、子ども達は経験が無いのだから教えるのが当然で教えない職場が悪いと繰り返します。こんな風に娘が職場でどんな位置にいるのか、組織はどう評価しているのかも推し量ることなく、母親と言うだけで、娘は被害者だと言い出す様な人に、どんな親切に対応しても、後日少しでも不利なことがあったら、助言が悪い、教え方が悪いと責任転嫁されかねないので、労働法に則って何を申請するのかちゃんと自分たちで決めてから相談すべきと繰り返しますがそれが通じません。話し合うほどに、職場の悪口になり職場は職員を守る義務があると譲りません。この二人は何しに来たのかなと話しをしながらつくづくとおもいました。どんなに職場の悪口を言ってもいいのですが、職場は学校のように授業料を頂いている立場ではなく、働きに応じて給料を払うだけで、ノーワークノーペイが原則で、長期に亘って休職したいという職員に対してそんなに親切なわけがありません。しかも、職場に相談もなく勝手に病院に行くなど自分から行動を起こしているのですから、最後まで受動ではなく能動で調べて行動すべきとしか思えないのですが教えることが職員を守ることだと言い張るのです。職場は、公平は求められますが、平等ではないということも分かっていませんでした。そしてどこの職場だって職員に不満を聞けばいくらでも出てきますから、病気になった原因が職場にあるというのなら、労災として申請すればいいし、休みたいだけなら、有休休暇を使う方法もあります。休職は、通常無給ですから、それでも良いのなら、傷病手当を受ける方法もあります。しかし、どの方法も一長一短あって、不利益が発生することがあります。それだけにどの方法にするかは自己決定が最も優先されます。しかもそれは中立の方、つまりは社労士とか労基とか相談しないと難しいことです。職場としては職場にとって都合のいい説明しか出来ないことは当然のことですから、本人の申請に基づいて事務手続きをするしかないのです。聞きながら、職場の問題をこんなに並べて、この親のストレス解消にはなったとしても、休んだ後で、職場に復帰するつもりで娘がいたのなら、どうするつもりなのかとしか思えませんでした。客と店のトラブルならもう二度会うこともないからと嫌な時間が過ぎればいいと待てばいいのですが、この後仕事に来るのは、本人で母親が付いてくることは出来ません。当然上司としては同一部署で同時に疾病が発生は困惑の対象ですし警戒もします。周りも親が乗り込んで来たんだと面倒な人と風評は流れます。二人の親は延々と職員を守る義務があると言いますが、お二人のその行為が、ますます我が子が守られないことになるのではないかとしか思えないのです。話す内容が、我が子の面倒を見てくれていないと訴えているようにしか聞こえないのですが、学校のいじめの様な問題ではなく、職場ですから職場として労基に基づいて最善を尽くしていますとしか言いようがありません。ついには、そんなに面倒見が悪いところに拘る必要もないのではと言葉が出てしまうと、改善する気もないと非難します。あなたのお子さんの面倒を見るために改善するつもりはないと口まで出かかるし、別段引き留めたい人材でもありませんとも言いたくなってしまいます。母親たちの言葉は、普通辞めるときに言う台詞としか思えないだけに、悪口・嫌みを言い改善しないと非難して、休みが明けたら出勤させるということも理解しがたいことでした。同席した娘本人は、就業規則も、病院もちゃんと調べ、2人で行った。診断書を出せばいいと言われたから出しただけだと言う。スターとするならゴールはどこときちんと設定すればいいと思うのですが、診断書さえ出せば後は職場が面倒見てくれると思っているようです。親も子も労基法に、自分たちは守られていると思いこんでいますが、労基法は労使が対等ですから、双方に義務と責任があることが分かっていません。職場に、いきなり診断書を突き付けて明日から休みますと、引き継ぎもせず、事前に決まっていたローティション勤務も反故にして、休すみに入り、事務手続きを事務に聞いても教えてくれないのは職員を守る義務違反だと言い出す親子に、職場が好感など持つ分けがありません。現場は交代勤務要員を急遽探しお願いし、業務の不備を無くそうと努力せざるを得ません。迷惑と思うのも当然で、娘の側に立って考えることまでは行きつきません。それほど、解雇というのはハードルが高くて、期待もしていないし、引き留める気もないような職員でも、親子含めて話し合いと言う経過を持たなければならないのです。

 

 

精神病の診断書を売るようなクリニックは、金が儲かるの話

 今、心療内科へ行けば、一ケ月の休養なんて診断書、初めて訪れただけの診察でも疾病名を付けて出してくれる病院があります。会社でどんな生活をしているのか、どんな職場環境にあるのかなんて全く関係なく本人の病気が悪化する前に休ませるべきで、会社では踏ん切りのつかないだろうから、医者と言う権威でドクターストップをかけるというものです。それはそれで一つの方法かもしれないのですが、こっちが心配しているのは、休んだ後で、どうやって元の職場へ戻るのかと言うことです。問題解決の場では振り上げた手をどうやっておろすかは大変なことです。つまり、始めることより終結させることの方が一番難しいということです。職場は一か月ぐらい本人がいなくなっても何も変わることがありません。本人が休養しなければならない原因となった職場の環境も状況も変わることはありませんから、復帰すれば同じ環境の元で働くのですから、再発する可能性は大きいのです。怪我等の疾病なら周囲の人間も仕方がないと認識しますが、適応障害だの、パニック障害だの、うつ病だのと言われて1か月休んで復帰した職員をどのように受け入れていったらいいのか周りの方が困惑することになるのです。特に上司は自分が原因だと責められるだけでなくパワハラなんて言われるかもしれませんから、おっかなびっくりの腫れ物に触るという環境に於かれる場合も出てきます。つまり、精神的疾患の発症には環境要素が強く、個人の問題ではない原因が多く周囲の理解と協力によって改善されますから、仮に本当に精神疾患だったとするなら復帰する職場内の環境を整理して共通する課題を明確にしておかないと本人は単なる対応に問題がある人とされてしまうだけなのです。過去には、怠け癖が付いているとか、働く意欲が乏しいと言われたこともあります。障がい者の差別も同様で、個人の問題ではないのに環境に適応できない人を排除することが先行して、差別されてきたのです。地道な活動を得て精神障害に対しても社会の受け入れる体制が大きくなったということや、病院に行きやすい環境が出来てきたという事は確かです。しかし、職場に、突然だろうと診断書を持っていけば休職出来ますよと、診断書を乱発することとは別だと思うのです。社会の受け入れ状態が変わってきたといっても、医師が思っている以上に、精神障がい者の社会生活は今だってとても生きずらい社会である事は変わらないのです。にもかかわらず、疾病名を付けなければ薬も出せず、診察料も取れないからなのか、何でもかんでも精神科の疾病名を付けて、診断書料を稼ぐのは、医師のやることだとは思えないのです。当の本人は、これで休みが取れると葵の印籠の如く職場に差し出します。経過を知らない受け取る方は、本当に良いのと聞きたくなるのです。実際にここには精神疾患の病名が書いてあるんですよ、精神疾患として休職して後で困らないのと心配になります。本人はこれで1か月休めるし、どうせならもう辞めてもいいと思っているのでしょうから、根掘り葉掘り聞いてしまうと労務の問題となってしまうので診断書が出ているのだから認めますとしか言いようがありませんが、職場の環境はあなたが休んだとしても何も変わらないんですよとしか言えません。まあ、帰ってくる気がないならそれでもいいかと思うのですが、仮にもし、帰ってくる気でいるのなら診断書を出せば、権利として休職できると勧めるような医師に自分の未来を託すことは止めた方がいいよとしか言えません。何故なら、本人が職場でそれなりのポジションにいたなら、そんな部下には悩んでいただろうし、平の職員なら職場の同僚がそのような行為をしたなら文句を言っていた、職場の雰囲気を分かっていると思うからです。休んだ職員の仕事をみんなに分配されてただでさえ人手が足りないと思っていたのに自分の仕事が増えただけでなく、前例事例的な締め付けも強くなって、疾病と言いながらも同情なんて少しもできず、むしろ被害者感覚になっていた職場の雰囲気を知っているはずです。ですから、何も変わっていない1カ月後の職場には、とばっちりを受けたとしか思っていない同僚や上司がいるだけです。そして、同僚にとって、仕事は山ほどあって一緒にやることになっても、頼んだとしても、逃げられたら結局は自分でしりぬぐいしなければならないということが頭の中から離れなくなってしまいます。休む本人にしてみれば緊急事態なのでしょうが、残されたものにとっては、被害感覚しか残らないという感情になりかねない事を、医師は伝え、周りを如何に巻き込んで理解される休職の方法を伝授すべきだと思うのです。職場の改善は簡単ではありませんから改善を勧める必要はありませんが、少なくとも休むことを支えてくれるだけの協力者はどこにでもいることを話すべきです。それは日本人のお互い様感覚でもあります。そうでないと、仮に本人自身が、疾病の原因は、職場の環境要素で自身は、被害者と思っても、同じ職場の人間関係では突然仕事を放り出していなくなった加害者にすぎません。加害者・被害者の感情にならないための心理学を習得してきたはずの医師がこんなことも配慮せず、診断書だけを渡すことは職業人の悩みで金もうけをしているのかと言う疑問を持たれても仕方のない事です。何故なら、1カ月後の職場で、冷たい視線や仕事の変更などで結局いずらくなって辞めざるを得なくなる事もあり得るからです。そして、次の職場を探すとき、疾病で休んだ挙句に辞職したということを背負っていかなければならないことになるからです。職場を辞める多くの人が、職場に腹を立てていても円満解決の偽装に従っているのは、次の仕事を探さなければならないからです。辞職の理由によっては、本人の能力よりも会社のレベルを下げなければ就労できない差別がまだ世の中にはあるのです。未来を据えて我慢することよりも、未来を据えて働くためには、風邪並みの軽い疾病だからと、安易に精神病の診断書を売るような行為は、差別を助長する積み重ねの一つになると思うのです。

 

新しい見世物の様なパラリンピックの話

 パラリンピックの種目の中には、健常者の競技を障がい者用に転用したものがあります。例えば、車椅子のバスケット。激しく車椅子をぶつけ合うことがまるで勇壮な競技のように広報されたりもしています。でも、本当にこんな競技を行う必要があるのかと私は思うのです。健常者が出来ることは、障害者も出来ると証明することが、重要な時代もありましたが、今日では障がい者ならではと言う競技に変更していってもいいのではないかと思うのです。多くの障害者がやってみたいという事に反対することはありませんが、健常者のスポーツ種目を障害者にチャレンジさせて敢えて戦う必要は感じられません。スポーツとして楽しむことと競技として優劣を競うことは全く違います。その視点で見ると障がい者の足である車イスをあんなに酷使してショー仕立てにする必要はありません。過去には、成長ホルモンや甲状腺ホルモンの病気、染色体の異常、骨の病気など様々疾病による低身長の人を「小人」としてプロレスなどに出す見世物がありました。ハンディをショーの道具の一つとして利用しました。同じように日本のお祭りには見世物小屋があって、身体に奇形のある障害者が集められて見世物として憐れを謳いました。その時の言葉が「親の因果が子に報い」と差別を根付かせる宣伝文句でした。人が人を面白がって笑うという醜い面ばかりを強調したものです。その後の批判で、見世物小屋からも、テレビ放送からもなくなりましたが、障害を生活の糧としてどこが悪い、施しの様な福祉よりも体を張って生きているという方がましだと言うも障がい者もいました。そこには、障害者を笑いものにするな、晒し者にするのはかわいそう、という健常者の思い上がりの上目目線の余計な思いやりだとも言われました。その根底には、障害者に表舞台に出てくるな、ひっそりとしていろ、と存在さえも無かったことにしてしまうやり方だと憤慨している障がいの方もいました。でも、ちゃんと調べてもらえば分かりますが、見世物小屋で、社会でどれほど多くの障がい者が動物の如く展示され、動物の如く扱われ、社会に生きていたことさえも残されることなく憤死していることを。例え、表面的であろうと、障害者に対する偏見を無くすには、障害ショーでお金を儲ける的な手段を美化すべきではないと思うのです。何故なら、日本代表選手と言われているパラリンピックの8割が、企業などからのアスリート支援を受けているとも言われていますし、金銭的な支援がなければショーに出ることさえかなわないと言われているからです。パラリンピックをスポーツイベントとして格調高いものだとしていますが、通常に考えるなら観客から金をとって見せるスポーツの障がい者版ショーにすぎません。そして、CМでは障がいを前面に映し出して普通ですと語りますが、広告に使われているだけだと思うのです。結局健常者が怖いもの見たさで見世物小屋を見ていた時の感覚と何も変わらないと思うのです。そもそも、障害と言うのは、一つの条件では分類出来ません。健常者は、形態が同じなら、体重条件や男女と言ったルールだけで済んでいます。その時片手がない人が参加してもそれはハンディになっていても勝てば何の問題もありません。しかし、障害の場合、車椅子と言うだけではハンディは広すぎて調整が出来ません。だから、車いすバスケットでもさらに障がいの程度を得点化して参加者のレベル区分をする調整が必要になっています。そんな調整をしなければ障がいのレベルが偏より、公平な条件でゲームが展開出来ないと当人たちも思っています。その区分の中でも、少しでも障がいが軽い方が有利で、お金がある方がずっと有利です。車いすバスケットを称賛する雑誌は、試合会場には車いす同士がぶつかり合う音が響き、コートとタイヤの摩擦によってゴムの焦げる匂いがしてくるなどと勇壮な試合であると書くのですが、この競技用の車いすは、20万円台後半~50万円もします。しかも、1年くらいしか持たず、フレームが折れたりするとも言うのです。自分の足とも言える車椅子は道具にすぎず使い捨てでこの値段です。その理由は、バスケットボール用の車いす競技の特性として接触がとても多いからと言うのです。しかし、通常のバスケットでは、体をぶつけ合うことなどありませんし、危険行為として反則になります。また、カーレースなどは一般車にも応用するために必要だとホンダでは言っていましたが、このバスケット用の車いすを一般車椅子に応用することがあるのかと疑問にもなります。車軸周りや転倒防止では激しい動きをしますから相当の強度が確保されると思うのですが、車椅子を自由自在に動かす必要がある障がい者なんてそんなに多いわけがなく、むしろ両手が自由になる電動車いすの方が本人には仕事をする上でははるかに良いと思うのです。ですから、車椅子をぶつけ合って沢山のデーターが取れたところで応用すべきことは極少数だと思うのです。障がい者がスポーツを楽しむということと、競技を楽しむということは全く違います。パラリンピックの競技と言う形を変えただけの、障がい者同士を戦わせるショーを挙行する事は適切とはとても思えないのです。結局は、健常者用の競技を障害者用に改良したショーで、融合ではなく分離なのですから。