知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

所作の話

 お茶とか、能とかに必ず出てくるのが所作と云う言葉ですが、最近はあまり使われている言葉とは思えません。単純に言えば、「立ち振る舞い」「動作」「身振り」「仕草」なんて類義語があるように、自分の動きのことなのですが、自由な動きではなく、その目的を達成するための動きと言うことでもあります。ですから、武芸だと型とか流派の奥義的なものなのですが、芸術・文化的なことでも使用されることが多いと思います。ただ、この言葉は和風と言うことでは、頂点にあるのですが、ほとんどは感性的な言葉が前後左右上下について、なぜそうすべきなのかの回答はありません。むしろなぜかの説明をすれば、どんどん合理的になって形だけになりその形さえも透明になってしまうほど、感性的です。所作の奥義は、仏教用語の「身口意」で、体である身、言葉である口、心である意を意味しており、この身口意が総合されて形となったものが、その流派や芸の所作でもあるのです。ですから、その芸や文化の神髄を表す動作が所作ですから、その所作の上達こそが重要なのです。つまり、和の心と言う言い方の、表現は所作をもって体現されるということです。その為、所作は形から入って、修練によって形に、神髄を覆いかぶせていくということが、本筋だと思われるのです。

歩き方、座り方に立ち方、礼や物の持ち方の美しさによってその奥義が体現されます。弓道や剣道、空手などでも、動作の最高は所作ですし、相撲の四股なども所作と言われます。ところが、形は見れば分かるのですが、所作として美しいかどうかの判断など部外者には分かりません。例えば、弓道、さっさと弓引いて射なければ戦場じゃ殺されちゃうよとなってしまうし、茶道なら、もったいぶっているけど粉茶グイッと飲むだけと言えばその通りだと思うのです。能なんかは、日本の古典でなんとなく威厳がありそうだと先入観があるからじっと観ますが、仮面劇なのに動作が鈍いと言えばその通りだとも思うのです。もっと言うと、奥義を極めようとする探究者の気持ちなど部外者には分かりませんから、自分が理解できる範囲以外は、興味が持てるものか持てないものか程度の評価しか出来ないものです。その道を究めた人なら、その凄さが分かり伝わるものかもしれませんが、言葉では表現不能な所作の美しさを凡人に説明できるはずもありません。例えば骨董品。その価値は数字として金額として表され初めて反応できますが、国宝だって何の説明もなく普通に人の前に出せば、まさに二束三文と言う程度の価値しか評価できない事も起こります。どんなものもその価値はその道の精通者には確認できても、誰もが確認できるわけではありません。特に、科学が進んだ現代では、見える化という視覚で確認することが取り入れられ視覚的判断が結論になっていることがみられます。ですから所作の価値など考えることもなく所作の存在さえ見ることはなくなっていきます。和風が流行っていても、所作にたどり着くことはもはや困難です。見えるものの中に求められた所作は、見えるより奥へは行かないという見える化によってそこまでで終わる時代を迎えました。大阪の文楽のように、見えない所作に税金を投入しても無駄とバッサリ自治体の支援が減額されました。つまり、日本風の見えているものの中にある本質を見ようという感覚はもう必要ではなくなってきたということでもあります。古来の信仰であるような、山ははっきりと見えます。そこには神がみえますは嘘つきになってきました。見えないものを探すのではなく、見えているものの中にある所作はもうすぐ誰にも見えなくなる時代が訪れようとしているという事かもしれません。