知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

教育者の「気概」を話せぬ腰抜け管理者の話

 山口県周南市の県立周南総合支援学校の男性教員が、高等部の生徒が集まった校内での朝礼で、肢体不自由や知的障害がある生徒らに「指導されることに感謝(の気持ち)を持つことはとても大事です」と諭し、介助が必要な生徒を念頭に「朝からお姫様抱っこしてもらって、何でかなって考えてください」などと促したという記事が出ました。この発言に苦情が上がり、県教委特別支援教育推進室の主幹は「学校からの報告で大きな問題ではないと捉えたが、不愉快に思う人もいるので、配慮した言葉遣いが必要だと指導するよう、校長に口頭で指示した」とし、「誤解があったことは申し訳なかった。今後、発言には気を付けるよう該当教員を指導した」と 周南総合支援学校の校長は釈明したそうです。この報道に接し、主幹や校長の新聞取材に際しての発言が配慮したものだったとしたなら教員よりも酷い発言だと思うのです。それは、校長らは教員の言い方のテクニック不足として「本音をそのままいうな」と言っているとしか読めないからです。障害のある大変な生徒の面倒を見ているのは分かるけど、もっと間接的に遠回しに言わないと現代は苦情が来るから気を付けてと言っているとしか思えないのです。事案の発生したこの場面には、教員と生徒しかいなかったのでしょうから、生徒が家に帰って先生がこんなことを言っていたという話を親にしたことが発端だと思うのです。教員が朝礼をどれほど大事にしているか分かりませんが健常児の学校でも朝礼での話を聞き留めて家に帰ってから家族に話をするというほど印象に残る朝礼など多くはないと思うのです。まして、家族が、障害児の伝聞で教師が云った言わないになりかねない事で苦情まで言ってきた真意は、言葉の配慮で片付けられる内容ではないと思うのです。その生徒が何を感じたのかは報道されていませんから推測するだけで正しくはないかもしれませんが、今の自分の目線で考えると、もし、生徒が健常に言葉を発することが出来たのならこう答えたかと思うのです。「自分で歩けたらここには来ません」「障がいがなかったら、教師が生徒を抱っこなんかしたら性的虐待になりますよ」「給料貰った分働けよ。ボランティアじゃないんだから」「弱いものの前で、ありがとうの恐喝ですか」「謙虚にして驕らずを感謝の代わりに贈ります」と次々に溢れてきます。本質は教師としての、気概だと思うのです。特別支援学校ですから、障害があって普通の学校へは行けない人が来ていることを知っている教員が、周囲からは大変ですねと評価されているのに、生徒に手を差し伸べながら「ありがとうは」と聞いたら謙虚さを忘れ、傲慢になったと言われても仕方がないことだと思うのです。医療の現場で、看護師が患者を抱きかかえなければならなくても、患者にありがとうはなどと言いませんし、健常児の学校で教師にありがとうを考えろなどとも言いません。それは、給料を貰っているから当然のことをしているまでと言うことではなくて、職業的使命のことだと思うのです。つまり、感謝されるは、結果として付いてくることで感謝を目的としていないという事です。特別支援学校の教師になる為に努力してきたとしても、障害があって学校を選ぶことも出来ない文句を言えない、障がいを持つ子供の教師をしているうちに、知らず知らずのうちに慢心し、自己満足を強要するかのごとくなってしまったとしか思えないのです。良い事例に、誘拐監禁による支配の関係があります。誘拐された女の子が拘束監禁された環境の中で犯人は優しかったという事例があります。自由を奪われ苦しめられると、通常では考えられない程度の対応も光の如く思えるようにすることが出来るという事です。冤罪の場合でも、拘束監禁して周りを遮断して飢えさせれば少量のエサでも食いつくというやり方と同じです。だから、県教委特別支援教育推進室の主幹や校長の発言は、特別支援学校で日々努力している教員への背信行為だと思うのです。障がいを持つ子供たちの前に立ち教育ができることに感謝している教員がいることを何も伝えようとしていません。障がい児教育に気概を持って取り組んでいる教師がいるのに、本音は大変だと思っていてもそれを言っちゃいけないよとしか報道からは読めないのです。どんな職業でも辛い時や苦しい時があって、「感謝しているって言ってほしい時も」も愚痴を言いたい時もあります。給料に比べて仕事がきついという事もあります。でも多くの職業人は、自分の仕事への気概によって立ち続けていると思うのです。一方、今回の発言は、社会に出ていく高等部の生徒に社会性として感謝の心を持とうという事を指導したかったというかもしれません。しかしその場合でも、感謝と言う事を教えるのに、本人の障害から出発してしまうと、本人が歩けない限りが周りに感謝しながら生活しなければならないことになります。それは食事のたびに食べ物が得られたことに感謝することとは全く違うのです。社会的な感謝心は必要ですが、障害により支援やサポートを受けるたびに感謝をせよは、「卑屈」に生きろと言っていることと同じだと思うのです。今日では、障害者の権利が誤解されかねない時代の中で、教育を受ける環境の整備にさえ感謝しろと教員が言うことは、教員が謙虚にして驕らずと言う指導者としての原点を忘れた発言としか思えないのです。そして管理者は根性論ではなく、気概を諭すだけの謙虚さが必要だと思うのです。