知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

精神的に病んでいるとしか思えない人が職場にいたらの話

 職場の対人関係において、みんなとはちょっと違うかなと思う、反応だけでなく、そこに何故拘るのかという行動をする人がいても今日では差別や人権問題がありますからうっかりとしたことは言えないので、みんな言葉にはしません。でも本人以外は、困ったなという事では共有しているという環境の職場があったとします。少し前なら「空気が読めない」「鼻つまみ者」「お荷物」などと陰口をたたかれ、時にはいじめにもあっていましたが今日では過去の様な誰もが分かるような表現や対応はせず、放置する、出来るだけ関わらないという風にして「触らぬ神にたたりなし」と決め込んだ方が大人の対応となってきました。しかし、周りが如何に関わりを減らしたところで、本人は透明人間ではありませんから、当然向こうの方からやってきます。そして、みんなの態度に益々職場の自分への対応が、不条理だと感じるのです。そう、双方が相手の行動を、不条理だとも、理不尽だとも感じ合うのです。そして、孤立する協調性のないと言われる人は、徐々に、被害者意識に包まれていき、自分の非は、絶対に認めない人になっていきます。そのことが周りからの誤解が増幅する原因にもなります。周りみんなが自分に対して攻撃的だと思いこんでいる人にとって、非を認めることは制裁を受ける可能性があるという不安がありますから、非を認めないことは、自己防衛そのものとなっています。そして、自分が攻撃されたと思う相手には、しっこく騒ぎ立て、時間も相手の都合も関係なく離れず抗議し続けるのです。こんな職員には、職場としては辞めてくれたらと望んでも、今どきは簡単に解雇なんて出来ません。特に、関係しなければならない職員は、出来るだけ本人との関わりを拒否しがちですからチームを組むことが困難になり、業務の範囲も狭まります。にもかかわらず、被害者意識が高まっている本人は、辞めるという選択肢をさらに遠ざける思いこみに入っていきます。それは、辞めることは逃げであり、負けることだから、なんで正しい自分が排除されて、悪が蔓延るのかと言う思いが強くなっていくからです。自分が頑張っていることが、正義と職場を守っている自らが防波堤となっているとの使命感すら育てていくからです。ちょっとしたドラマのヒーローストリーに類似していると思いこむことが可能だからです。ですから繰り返されるわけのわからないと思われる抗議も、正義の戦いなのです。いじめの加害者が社会の求める反省が出来ないのも、自分は加害者ではなく被害者だという確信した思いがあるからです。多様化の時代は、柔軟だったり、浮遊的な人には自由と感じるかもしれませんが、固定的、信念的な考え方の人にとっては、拠り所のない、基準の不安定な社会そのものです。もっと言うと、普通が一番難しい時代に、バランスを取り続けた結果、バランスに困惑した挙句に、頑なになってしまってしまった人がいるのです。そして、本人はブレないように必死に自分を守っているのですがそのことが周りとの接点を狭めていきます。そして、弱い人ならいじめに会いますが、いじめにも負けず、自己防衛に専念する行動は、周りも困らせていくのです。誰もが、辞めてくれればいいのに、今どき就職先などいくらでもあるのにと不思議に思うのですが本人の使命感は強く、辞めさせようとしている管理者はすべからく悪の手先でしかありません。そして、ミスをすると辞めさせられると信じ込んでいますから、型通りの安全業務と本人が思いこんでいることしか行わず、時に指示される応用的なことの業務も罠としか考えられません。一方で、日常業務は本人の中で完璧に出来ていると確信していますから、何か指摘されると、猛然と反撃しミスは認めません。ミスがあるとしたなら、陰謀によって陥れようとしているとしか考えません。それでも好意的な人は、非難しながらも、病気なんじゃないのと同情的になってきます。その同情的な対応も、自分に対する攻撃と一つとしか思いません。それは、病気にして辞めさせようとしているです。本人は、もし、病気で辞めたなら、再就職はもとより、ここでの自分が否定されてしまうことになってしまう。としか感じませんから、自分への同情者すら、自己防衛の対象となってしまいます。孤独なのです。過去には「空気が読めない」「鼻つまみ者」「お荷物」などと言われた人は、自己否定を強要されましたが、今日では、関わりたくない困った人になっています。職場は、自分を無視し、監視し、攻撃しようとしているとしか思えなくなるほど、精神的に病んでいるとしか思えない人が職場にいても今日の風潮では、誰も、関わることが出来ません。遠巻きに様子を見ているだけです。その中で、被害者意識だけが、どんどん増幅していくのです。