知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

教団に所属しない仏教徒たちの話

 学校で、歴史を習うと栄枯盛衰を羅列したように説明されるのですが、その栄枯盛衰の原因や見解は人によって大きなずれがあるだけでなく、見当違いなことや、後年になって逆転されてしまうことも多くあります。しかも歴史上の人物であっても、記録を残す習慣などありませんし、紙はとても高価で、燃えやすく、水に弱く、さらに何度もリサイクルされていることも多いことから、記録が残ることの方が不思議なぐらいなのです。あの有名な源氏物語だって原本はないのです。さらに、栄枯盛衰では勝者の正当性が宣言できればいい程度の足跡しか記録として残りませんから、歴史では、推測や妄想がひしめきあっています。実際、歴史として知りたいことは、結果よりも背景や情勢・状況なのに、そんな資料は残されていず、歴史は見てきたような嘘をつくぐらいの勢いで言う人の話が真実のように見えてしまうのも事実です。戦前は、神話さえ歴史と権威ある学会から大学までもが教えていたように、不適正な解釈や間違いとは言えないが疑わしい解釈が沢山ある中で、権威の競い合いをしていますから、絶体視して信じ込まないことが無難と言えます。権威がありそうな考古学でも、大量の生活用品の中で遺物として残っているのは極ほんの一部です。縄文時代なんて一万年もあるのにその遺跡にのこっているのはほんの少しで、ほとんどの生活用品は土に帰ってしまい異物としては残っていません。つまり、歴史学は残された物で何とか理解しようとしていますが、言葉や行動、表現などの人間社会の中で一番重要で一番変化してきたものは何も残っていないので分からないのです。そして、歴史の半分は政治経済ですが、半分は宗教が深く関わっていたといえるのです。しかし、日本の戦後歴史教育では、宗教を学ぶことはご法度で、せいぜいが、誰がどんな宗派を起こした程度としていますが、象徴天皇が行っている重要な行事は、宗教行事でしかありません。ですから、学校教育で世界史を習って何故ユダヤ人が虐殺されたかも、イスラム教が何でキリスト教と対峙することになったのかも理解することは出来ないのです。ユダヤ教から派生したキリスト教イスラム教が源流は同じなのに政治を動かしなぜ戦っているのか分からないことが多すぎるということになるのです。日本で言えば、比叡山の焼き討ちが意味するところも単なる抵抗していたからではなく、政治の栄枯盛衰の裏側の重要な主役であることを学ばないと分からないことなのです。そんな宗教とは何かを一切学ぶことなく、大人になって宗教には無関係・無関心でいたのにいきなり関わらならなければならないのが、葬式です。ある程度の年齢になると、葬式と言う儀式に行かなければならないことが発生してきます。当然葬式の作法は、その宗教によりますし、宗教の宗派にも影響されます。もっと言えば死生観によって死への考え方は大きく違いますから、死者への礼節を生きるものとしてどのように対応してけじめをつけるかと言うことが葬式の儀式方法になると思うのです。その時になって初めて「うち何宗だったけ」と聞いて、そのまま教義も聞くことなく、その宗派であることに安堵してしまう人であっても、その宗教の生に対して、死に対してどう考えているのかだけでも確認すべきですが、当面、焼香はどうするか、線香はどう扱うか、葬式で恥をかかないためにはどうしたらいいかぐらいを確認できれば良くて、坊主のお経なんてどうでもいいことになってしまいます。そんな葬式の時だけ仏教徒が増えたのは、日本の仏教が観光地と葬式で生活して布教しないからです。教団の基本は、布教による信者の増加と信者から吸い上げる資金による勢力拡大です。そのことがより多くを救うことであり、布教は人類救済という使命の実践であり、教団はそのサポート組織として資金を集めるのです。インドで仏教が大きく組織化しなかったのは、在家信者を認めず、教団を組織しなかったからです。日本では、逆に国家仏教に始まって、基本が在家信者の組織化を目論む布教をしますから、宗派とは教団とも言える状態なのです。そして、教団は、布教によって信者獲得をするほどに、信者から資金が集められ、その資金に目がくらんで堕落していくのです。そんな宗教でも歴史を動かしてきましたし、マルクスらは宗教を毒とまで言いましたが、生活の道徳観にまで大きく影響を及ぼします。それは、政治が現世であることに対して、宗教は、前世、現世、来世という人間の歴史の中で常にテーマとなっていることに回答しているからです。中国の儒学では、現世しかありませんから、宗教として広がらないのです。宗教は、どこからきて、どう生きて、どこへ行くかと言うことを明示します。その教えが正しいと思わせるために、壮大な仕掛けとしての儀式や建造物・彫像物を作り出します。葬式仏教と言われた、日本の仏教は、日常生活から遊離してセレモニー業者の請負人になりつつありますが、本当は、宗教を学ぶことなく歴史を学ぶことは歴史の栄枯盛衰の真の動機を探り当てられないことになるのです。どんなに歴史の学習をしても宗教という側面が欠落していると理解は半減するのです。その意味で、今の日本の無関係・無関心は宗教を冷静に学ぶ絶好の機会と考えられます。もし自分が信じる宗教を持っていると歴史もその宗教の持つ視点からしか学ぶことが出来ません。逆に、無宗教と言う人ほど冷静に見られるのですから、宗教を学ぶには良い機会だと思うのです。宗教を信者の視点では無く学んだ上で歴史を学ぶと点と点が結びついていくと思うのです。歴史はその方がずっと分かりやすくなるのです。すると逆に、教団に利用されていない自分流の仏教徒になるかも知れません。