知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

トロッコ問題で覗きこんではならない心の話

 トロッコ問題を小・中学生に出したとしてテレビで話題となりましたが、そもそも論で言えば、クイズ感覚で奇抜な問題を出した非常識な話だったと思うのです。つまり、質問を作る、質問をするということは、どんな回答を求めているかという想定によって設定するものです。そうでないと何のために問うのかが全く不明になってしまいます。問うと言う事は、明確な目的や想定される回答を求めて行うものです。しかも問い方によって相手の反応も、回答内容まで誘導することも可能です。単純なアンケートで、反対意見を集めたいのなら、質問項目は、「賛成ですか」と聞くよりも「反対ですか」と聞く方が効果的です。ですから、質問者は、どんな結果を世目論んでいるかの想定だけでもしていなければならず出たとこ勝負なんて質問をしてはならないのです。そんなことをしたら答える方が混乱して、結果として場違いな回答や誤った回答へ誘導してしまい集計の意味さえ失われてしまいます。では、そんな視点でこのトロッコ問題を考えてみたいのです。トロッコ問題の主訴は、簡単に言えば、誰かの犠牲で誰かが助かる方法に遭遇したらどうするかという質問で、哲学、道徳、倫理の面からの回答が欲しいので、それた回答とならないように、絶対にトロッコは止まらないとか、一人が死ぬか、多数が死ぬかのどちらかの選択をあなた自身が決定しなければならないという限定条件の中での回答を求められます。生命の大切さの為の多様な発想が許される条件はありません。むしろ、長年人間とは何かを問い続けている人に対する禅問答の様な問いと考えるべきだと思うのです。しかも、この問いの深いところは、現実の社会の中に、常に存在して、実際は案外緊急時に考えもせず判断されている多くの事例に対しての問いとも言えます。例えば、「ハイジャックされたとき人質を救う場合、人質の中に犠牲者が出ても多数が救われるならその手段も正当になる」「原爆を落としたことで、戦争が終結し何百万の命が救われた」「ヒーローものは、みんなのために悪を殺し悪は退治されても良い」等々でここには日本的感性は関係ありません。つまり、正義のためなら多少の犠牲は許容されるかという問いでもあります。それをもっと詰めていくと、民主主義の多数決の原理だって、多数のために少数が犠牲になるということは往々にしておきます。それは、正しいのかという事になれば意見は全く様々になりますが、この問題は様々な意見を求めることで論議していこうというもので正解は見つかっていません。ですから、回答が無いような質問を、小・中学生に問うのは意味のないことだということがここでもはっきりしています。さらに、問題の目的も、問題の意図も全く理解も出来ない回答者が出す、回答自体が適切ではないだけでなく、統計的にも処理が出来ず、集団に問う問題としては全く適さないからです。それでも、子どもたちに問うてみたいというなら、条件を外して、子供たちの自由な発想でどうしたら命が救えますかと問いかけてみるなら少しは意味を持ってきます。大人が考える正義的なこととは関係なく、命は守れるかと聞いたなら子供たちは素晴らしい発想で考えてくれると思うのです。大人なら、単純に小説の「塩狩峠」のテーマにある、自己犠牲によって列車の乗客を救った話のように線路に身を投げ出してみんなを救うということもありそうですが、子どもたちなら、自分も助かりみんなも助かる方法を奇想天外に考えられますから、トロッコぐらい線路に石を置いて脱線させればいいということから始まるかもしれません。素早く縄を解くなんてことも考えられますし、大声で本人たちに知らせるとか、トロッコに飛び乗ってブレーキを掛けるとか、飛び乗ったトロッコをわざと脱線させるとか、子供ならではの発想の面白さが出てくると思われます。ところが、この問題を出したというスクールカウンセラーは、授業でこの問題を使って、「選択に困ったり、不安を感じたりした場合に、周りに助けを求めることの大切さを知ってもらう」のが狙いだったと言っているのです。その目的でこの問題を使うとしたなら、心理職でありながらこの問題のテーマも知らなかったのかと笑われてしまうようなことです。子供たちは何時も正解のあるテストを受けて、テストに関して分からないから他者に聞くなんてことは反射的にも出来ない訓練を受け続けています。だから、紙ベースで問えば、正解を求めてしまうのが当然でそんな認識もなく子供たちの前に立ってしまうことが問題です。譲って、スクールカウンセラーが言う事を信じたとしても、この問題には周りには誰もいません。自身で判断することが求められています。ですから、この問題で周りに助けを求めることを学ぶことは絶対に無理です。こんな問題で子供の倫理観を覗いてみようとしたのなら、悪趣味としか思えません。心理職にとって大切なのは、相手の心を覗き見る事ではなく、必要な課題に対して本人の持てるパワーを引き出して自らの力で解いてみようとする気持ちにさせる事だと思うのです。逆に、試されていると感じる子供たちからは、自分の気持ちに素直に感じたままで表現することは危険だ、相手が信用できない、この問題は罠だとしか考えられないような、不適切質問と言えます。質問は、相手を評価することが主目的になってはならないのです。スクールカウンセラーの言う、必ず応援する人がいるから表現してくれと言うことなら、子供の思考発達段階に、応じた他に事例も、質問も、課題も、いくらでもあることを学習すべきだと思うのです。つまり、トロッコ問題は、人を試す問題でもあるのですから、安易に興味本位に行うべきではないのです。他人の家に訪問して、奧を覗きこむような感覚で人の心を覗いてはならないのです。