知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

一票の重みより組織票はずっと重いの話

 選挙が近づくと選挙に行こうと様々な人が広報しますし、テレビや新聞でも一票の重みを熱く語ります。あなたの一票が社会を変えるかもしれないなどと言う声かけに心を打たれて投票に行った人も多いと思います。しかし、これはみんな欺瞞です。ですから、何回かの選挙に行って気が付くのです。自分の一票がいつだって死票の如く社会に反映されていないし、多数決で決めるという事は、みんなと同じじゃないと結局反映なんかされないということに。選挙の原理を調べれば分かることですが、組織票が絶対に強く、対立していたのなら、一票差でも負けた方の票は反映されないのです。そして、組織で過半数を取った政党が政治を動かしていると言う事実です。その結果、その政党を支持している人が全体の20%に及ばなくても政権を掴むことは可能となるのです。しかも、組織票は利益の分配ですから、優先的にその組織にまず分配があるのです。その実例は今のアメリカを見れば分かります。どんなに批判されてもトランプ氏は、大統領の権限をフルに生かして選挙で自分を支持する人のために施策を推し進めています。知識人と言われる人たちがいつも言うような十分な論議をすべきだとか、反対の人の意見もちゃんと聞いてなんてこともなくても権力は続いています。戦後アメリカの議会民主制方式を取り入れただけでしかない日本の選挙では利益分配組織が圧倒的に強いのです。何故なら、金権選挙は批判されても、人員動員は批判されないからです。選挙ではどれだけ人を動員できるかが当落に大きくかかわります。会社や団体を含めた組織が選挙活動を行えば、仕事中や業務中でも動員は可能ですが、組織を持たなければ、仕事を休んで弁当と飲み物を持って候補者の所へ来てくれる人を探さなければなりません。人がいなければ、公式な場への選挙ポスターさえ貼り終えることも出来ず、街頭や駅前でビラ・チラシを配ることさえままなりません。ネットを使用するという方法もありますが、今やネットの世界も溢れかえる情報で余程の有名人でなければ、選挙に出ているというだけで開いてくれるものでもありません。よく自転車に旗指物で行っている候補者もいますが、選挙地域が小さければ可能ですが、大きければ回り切れませんし人のいない野原を叫びながら走っても得票には結びつきません。お金を払うと選挙違反になりますから、現金ではない未来の利益還元を約束してただ働きをしてくれる人を探していくと、組織に出会うのです。例えば、100人の有権者がいて全員が必ず投票したとしても、候補者が2人で対立していれば、51票と49票になったのなら49票は反映されません。反対者の重みとか言いますが、当選した者が官軍なのです。さらに、候補者が3人とか複数になると選択に迷う有権者が増えると、多数決ですから当選のための得票数値は下がります。この時2割の支持しかないと言っても20人確保出来ている基礎票を固めている方が有利なのは当たり前のことです。つまり今の民主主義のルールでは、選挙では自分の権利を誰に委任するかと言うことですから、委任したい人が候補にいなければ投票しても結果は同じなのです。その意味では、当選者と支持者であっても、すべてが一致しているわけではありませんから、当選後の活動は当選者にすべて委ねられてしまいます。ほぼ全権委任なのです。その、議員だって議会で質問しても意見を言ってもそれで何かが大きく変わるわけではありません。法治国家と言われる日本では議員は立法府の一員で法案を法律にしなければ行政府としての官僚は動かないのです。どんなにいい法案でも、当選者の中で、多数派を構成しなければ法案を堤出すことも通過させることも困難になりますから、ここでも組織の一員であることが有利なのは当然です。つまり、一票の重みを語っている人々だって、直接選挙制でもないこの制度の中では、現実的ではない理想を語っていることを自覚しているはずなのです。選挙が終わるたびに、一票の格差に関する裁判が行われています。その裁判結果からしても、公式に、公が一定の範囲内なら格差があることを認めています。それは、一票の価値は、公平ではないと認めたものでもあります。ですから、一点集中政策であっても、不満の集中であっても、組織化しなければ議席は確保できません。マスコミ等に出てくる識者が選挙の理想を語り現実和を話さないことが、ますます自分の一票なんて本当はとても軽いということに気が付いて、選挙に無関心な人を増やしていると思うのです。あなたの一票で何かが変わるなんて甘い話をするから行くたびに幻滅を感じる人が増えるのです。選挙には、一人一人を大切にするという機能などないことをきちんと説明すべきなのです。そして、何かの施策を実現したいなら、徒党を組んで、多数派を構成しなければならないということをもっとはっきり説明すべきだと思うのです。