知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

電車の中で酒飲むなの話

 電車の中で通勤帰りの楽しみなのか、ビールにハンカチを巻いておつまみを食べながら乗っている人がいます。しかも、それは、座席に座れなければ、立ってでも行われます。現代では、電車の中は大変綺麗になりました。過去の、電車の中は、網棚に雑誌や新聞が捨てられていましたし、ガムが床に附いていたり、飲み物の空き缶が通路を転がっていることもよくありました。そんな網棚の雑誌を拾い集めて駅前の路上などで安価に販売することも見られましたが、今は電話機を見つめる人ばかりで、雑誌を読んでいる人までも見かけなくなりました。そして、たばこを吸う人は誰もいなくなりました。それなのに、アルコールを飲む人は、続いているのです。酒はもともと神との共食の大事な要件ではありましたが、現代の酒は、個人のし好品以外の何物でもなくなりました。ですからどこで飲もうと個人の勝手でしょと言うことですし、税金を払って飲んでいるのに何で文句言われるんだという人もいるかもしれません。でも、飲酒による事故やトラブル、暴力行使は、意外と続いています。そこで気になるのが、社会の飲酒事故に関する許容の範囲が広いということです。今では、飲酒運転は犯罪ですと言われますが、これまでは酒の上だからと加害行為があっても大目に見るという状況が続いていました。ですから飲ミニュケーションなどと会社が終わってから酒席を設けてコミュニケーションを図ることが推奨されてもいました。しかし、現実にはこの酒席で女性が被害を受けるなどと言うことも多発していましたし、接待や黒い交際の隠れ蓑となり、政治を含めて酒席は決して明朗なコミュニケーションの手段ではないことは日本人なら誰もが知っていることです。なぜなら、アルコールもまた人間の意識に作用して理性を緩慢にさせ自己の判断力を薄める力があるからです。飲んで和やかになるというのは、飲酒が好きな人の言い訳で、酒に頼らなくても和やかな雰囲気など作れますし、実際の表の労働の現場では酒など飲みながら働いてはいません。仕事に欠かせないという人でも、仕事の中では飲酒はせず、仕事外で酒を使ってうまくやろうとしているにすぎません。それは、すり替えなのです。仕事中に使用できないものが仕事に欠かせないものだとしたなら、裏社会と同じになります。水清ければ魚が住まないという言い訳をして仕事の中に不適正なものを正当化する方法もありますが、今日のコンプライアンスと言う考え方ではリスクが高すぎる考え方です。逆に魚の住める清流ではないような濁った流れでは会社は潰れる時代とも言えます。被害者を前に、酒を飲んでいたので覚えていないと言う加害者の言い訳を理解するような社会通念は間違っています。飲酒での事故には、同情すべき余地はありません。なぜなら、酒は、本人の意識を正常値を維持できなくするものなのだからです。そして、正常値の範囲で留まれる人は酒に頼ることはありませんが、繰り返し酒で失敗する人は正常値からすぐに一脱してしまうのです。酔っぱらいは、酔っていないと強情を張るのは、既に客観的に自分の状況を把握できなくなっているからです。それが分かっていながら飲むのです。酒での失敗談を武勇伝などと言わしめる環境が良くないのです。酒は、百薬の長も酒飲みの言い訳にすぎません。自己の判断力を阻害する薬物を飲んだのと同じなのですから、事故や事件を起こせば刃物を持っていたのと同じですし、酒癖が悪いと言われながら飲んだのなら計画的な悪いことです。酒の上での事で許されるから、トラブルも絶えないし、被害者も救われないのです。電車の中では何があるか分かりません。結果として酒酔いでのトラブルがあった時、電車は遅れそのトラブルに巻き込まれると被害者が出るのです。電車の中で飲まなくても、飲むところはいくらでもあります。敢て飲む必要はないと思うのです。