知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

学童保育にどんな質を求めているのかわからない話

 学童保育の歴史は、そんなに長くはありません。というのは、学童保育そのものがどんなものと規定されていませんし、形も時代で変わっています。本来必要なのかという疑問もありますから、学童保育そのものが曖昧すぎて実務・実施内容もまるで違うのです。ただ対象となる6歳から10歳ぐらいまでの子どもの生活は、社会の状況に大きく左右されますから、大人の見守りが必要な時代です。特に、小学校へ入学した低学年の、放課後の子供の過ごし方には社会の責任として配慮しなければならないというのは当然の事ですが、それが学童保育の質の確保と同等に論議されるのは違うと思うのです。子供は都会でも山の中でも家の中でも遊ぶことは出来ますが、その遊びの場が、著しい社会環境の変化から影響を受けて子供集団だけでは場の確保さえできなくなっているということは事実です。その要因の一つが安全の確保ということだと思うのです。単純な事故防止や犯罪防止だけではなく、苦情や補償問題などの大人の利得までが持ち込まれていることです。本来優先しなければならない子供の利益よりも、子供の安全性の中にまで大人の都合が深く関わり大人の対応が追いついていけず、子供を囲い込むことでないと子どもの安全性の確保ができないと思いこむほどに追い詰められているからだと思うのです。過去には、テレビに子守させているという批判がありましたが、やがて、テレビ番組ではなくファミコン等のテレビゲームに変わり、今ではスマホに子守をさせるという報告があるように、大人自身が制御できない機器が無制限に子供の遊びに持ち込まれ、規制が後を追いかけても間に合わないという環境が続いています。元々子供の遊びは、大人の真似だったりしますが、大人の持ち込む機器は、子供の自由度を狭め、結果として大人の管理下で過ごさなければ安全が保てないという環境になっているとも言えます。では過去は専業主婦が多かったのだから、親が見ていたのではと思われますが、それは正しくはありません。過去の専業主婦は、家事に専業しなければならないほど家庭内の仕事は多かったのです。脱水のない手洗いの洗濯は、洗いから乾燥までは一日仕事でしたし、アイロンがけをしなければならない繊維でもありました。冷蔵庫が普及する前の家庭の食品保存機能では、食事の準備は、毎日の買い出しから始まって調理、片付けと実際には子供の保育に専念できる環境ではなく、専業主婦は家事に長い時間拘束されており育児に専念できたのではありません。まして、農業や家業を営んでいる家では、子ども自体が労働力でもあったのです。それが家事の電化が始まったことで解放されるのですが、今度は、パートに行かざるを得ない経済環境になったのです。昭和30年代後半には、“ポストの数ほど保育所を”という言葉が生まれるほど母親の動員が始まっていましたし、「かぎっ子」という言葉も生まれるぐらい子供が放任されていた時代もあるのです。そして、親が見られなければ、兄弟姉妹であったり、祖父母でしたが、助け合うはずの兄弟姉妹も、祖父母もいない時代が急激に出現する中で、保育所を卒園した後の子どもの保育はどうするのかという中で、学童保育の必要性は増々増大しているというのも事実です。このような中で、起きた学童保育の質という問題なのですが、実際に決められた質の基準は、資格制度に近いもので有資格という事が一定の質を確保するものとなっています。そこに、疑問があるのです。つまり質を要求している中身を聞けば、遊びを確保すると言う事よりも、教育的配慮を求めているとしか思えないのです。つまりどうせ預けるのなら教育的配慮が出来た方がいいというものです。そこには、宿題を見てほしい、塾的配慮も必要だ、しつけや社会的要素・集団適応そして発達支援等々を求めています。だから、その辺の元気な年寄りが見ているということでは駄目なのです。もし、地域が健全ならば、子どもの安全が確保されるなら、日が暮れるまで遊べばいいことですから、何の資格もなくても子供が好きな人を任命してそれぞれの方法でも良いことなのです。しかし、求められる教育的配慮がない環境には、子供の親が納得しないのです。ただ、遊ばしているでは駄目なのです。それが学童保育に資格が必要ということの本音であると私は思っています。そして、教育的配慮を求めるのなら、学校の延長の方がはるかに効果的だとも思っています。放課後の一定時間に教育的配慮が必要なのは、小学校の高学年ぐらいまで遡らないと安全の確保ができない時代でもあるのです。留守番という言葉がなくなるように塾で過ごし、空き地と言われる地面は事故が起きないように囲いで閉鎖され、道路で遊ぶなどという事はとんでもないこととなりました。高校全入と言われるほどに教育の期間が長くなった中で、子供の社会体験は縮小し座学の期間が長くなるほど、幼少期の体験学習は貴重になってきています。有資格者で、宿題が見られることが求められることよりも、無資格でも、子供とうまく遊べる人を確保することの方が必要だと思うのです。