知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

標準なんて簡単に変えられるの話

 みんないい人はみんなダメな人。強いリーダーは危ない人。支えているのは保身がうまい人。と言えますが、宗教の信者は、忠誠心と護衛心、布教心の三拍子が揃っていなければなりません。つまり、神であれ仏であれ、主たる者への忠誠心は信者としての位置を確定します。そして、主たる者への個人や国家からの攻撃を防ぎ守るための護衛心によって過激にも温厚にもなります。さらに、布教となれば、既存の宗教の否定や獲得の過程は、穏健では出来ず、過激な手法を行うこともあります。歴史の中でも宗教がらみの戦争は延々と起きています。そこには、偶然であっても他宗教から信者に対して布教的な行為があれば、邪教から信者を守ることは主たる者への忠誠心になるからです。日本的仏教は、神仏混合多神の時代が長いので、一神宗教の厳格性や排他性に鈍感です。例えば、普通の宗教の信者なら、結婚式を仏式にするか神式にするか教会にするかなどと悩むこと自体があり得ないことです。今では、寺が経営する霊園でさえ、どんな宗教でも受け入れできますといいます。唯一のものしか認めないと考える人は、核心が明確なので、周りの多様性を容認しますが、多神教的社会では正解はありませんから、逆に、バラバラにならないように個の多様性は制限され集団化が強く求められます。つまり、絶体神が存在するところでは、人間が神になることも、化身などという発想もありませんから、人間と神は、完全に分離しています。ところが日本的多神では簡単に人間が神の列に並ぶことが出来ます。その為日本的多神の世界では、集団の離合集散は、利益によって行われる傾向がありその手段として家父長制などのように血縁や地縁が大きく左右し強い縛りで集団を維持しようとします。結果として、神のごとくふるまう独裁政権も可能で、天皇制は、ヨーロッパの王政とは全く違ったものです。絶対唯一を信じる人には、妥協はありませんから、東洋的な独裁政権は、独裁者が神のごとくふるまうから嫌われます。宗教は、多数であることは重要でその組織は強固な規律で支配します。独裁者の社会は、組織は細かく分散して縦横の関係を分断します。独裁者は、宗教を利用するか否定して、支配者が神のごとくにふるまいます。唯一のものしか認めない人の中では、独裁者は神になろうとする不届きもの以外の何でもなくなるのです。その時、宗教は護衛心によって過激になります

 絶体神の社会では、多数の人間がそれが神のお考えであると支持すればそれが正義となることも出来ますが、多神では様々な考えが出て多数であっても正義にはなれず、少数でも独裁者によって正義の名の元の決定も可能です。この様になってしまったのは、仏教的には、本来仏に「帰依」(全身全霊で信じ、拠り所にする)するという行為を僧の役割として自分は「帰依」しないからです。ですから、寺にお参りをしても、神社に願いを言っても、教会で挙式しても、すべて可能なのです。日本の信者は、ちょっとの忠誠心と自己保身の程度の護衛心と、人には明言したくない布教心の三拍子でやっています。

 ですから、絶体神の世界では、自分たちの考え方が、標準でこの標準に対して相手はどの辺かと言う判断をしますが、日本は、標準を持ちませんから、その時々の状況で標準を変えます。明治維新が出来たのも、戦後アメリカの対応を苦も無く受け入れたのもこんな背景があったからです。ところが、今度は、中国と言う、違う標準が現れてきました。中国という国と国民は実に強硬で自分の考えを変えることのない歴史を持っています。天、皇帝と言う標準は、宗教とも違い、現世の利益や利害が大きく関与してきます。まだ日本では、宗教の理解もせずに、英語ができたらグローバルなんて考えているときに、中国語が底辺で広がっているのです。キリスト教的標準、イスラム教的標準、ヒンズー教仏教的標準と標準なんてどこにでも転がっています。そして、簡単に変わってしまいます。その標準に乗り遅れまいと対応してきたことが今日の繁栄だとも言えるのですが、標準次第では、日本人的みんないい人は、みんな駄目な人になってしまいます。だから国は、国に対する忠誠心としての日本人の優秀論を展開し、国を守る護衛心を育成しようとしていますし、スポーツを通じた「ニッポン チャチャチヤ」を布教しています。そこには、大きく変わるかもしれない標準への危機感でもあるのですが、この200年間での標準の変化は戦争によるものだったことも事実です。