知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

ヒヤリハットは、危険な支援の証明書の話

 ヒヤリハット記録と言うのは、事故にまではならなかったものの、事故に直結してもおかしくない「ミス」や「ヒャッ」とした「ハッ」としたことを指すと説明され、福祉の現場では、罰として書くものでも、反省として報告するものでもなく、目的は再発防止のための必要な情報共有の記録として奨励どころか、監査の一部にもなっています。この始まりを介護の手引書などでは、「ハインリッヒの法則」からと数学の定理のように説明しますが、決してそんな正確な法則ではありません。ハインリッヒという学者が労働災害の研究の結果として、実際に1件の大きな事故の裏には、30件程度の軽傷な事故、そして300件ほどのヒヤリハットがあると報告したものが法則とまで言われるようになったのです。しかし、労働災害と言う現場と、介護現場は違いますから一つの考え方としては、間違いとは言えませんが、ヒヤリハット報告書を多数提出していることが、良い施設ではありません。監査等では、提出書類の一つにまでなりましたが、活用すればと言う条件がなければ無駄な記録といっても過言ではありません。なぜなら、提出されたヒヤリ・ハット事例をまとめ、分析し、再発を防ぐ手立てを考え、その情報を共有するという検証作業を行うことが絶対条件で、分析も考察も検証も行わない書きっぱなしなら、記録が山ほどあっても無駄な労働時間にしかならないからです。どんなに有効な食材を多量に集めても、調理して摂取可能な状態にしなければ、血肉にはならず、下痢して客に迷惑を掛けることになってしまいます。実際に、現場では、会議の時間も取れない現状があって、事例研究としてまとめるにも困難で、再度読み返すことすらない監査用の記録の一つになりかねないのです。さらに、法則では、労働災害現場では一つの事例の背後には、それよりはるかに多数のヒヤリ・ハット事例が潜んでいると言いますが、支援現場では、職員一人一人の技能や経験値の差によってヒヤリ・ハットの内容も大きく違いすぎます。つまり、誰が「ヒャッ」としたり「ハッ」したりしたかで問題は大きく変わってしまいます。支援の現場では、本人は平然と実施していることが周囲からすればヒヤヒヤするなんてことはよくあることです。この場合、本人に指摘しても、本人が「ヒャッ」とも「ハット」ともしていない、適切だったと主張したなら論議にもなりません。支援現場の支援方法には絶対的な正解はなく職員の個性や経験値でも誤差や違いがあって、基本や基準は定められるのですが応用部分では評価が分かれることもあるのです。  

 また、ヒヤリ・ハットのメリットは、現場で起こる事故を「予測する力」を身につけることができ、介護現場にある危険を「予測する・想定する」力があれば、急なことでも冷静に受け止め、対処が可能で、慌てず落ち着いて仕事ができると介護本などで学者は説明します。しかし、支援の理念を理解していないと危険を「予測する・想定する」力は、逆に予測される危険の除去を事前に行う力に成り、予備的拘束だったり、予備的制限だったり、先回り対応や行動抑制など、利用者の生活を狭める理由や根拠にされてしまいます。危険だから「やらせない」あぶないから「任せない」、リスクがある事は「職員がやる」と言う対応が行われる危険があるのです。つまり、労働災害現場では、行うべき行動も仕上がりも決まっていてマニュアルもはっきりしているのに対して、支援現場は生活支援と言うことや人生支援と言うことですから統一した明確な結果像を共有していず、個々の経験値や技能そして、個性による支援が日常なのです。だから、監査用に書かれた、ヒヤリハットが多い施設は、逆に危険な施設なのです。

 それだけでなく、ヒヤリハットが、職員自身の未熟さに気づけという意味では一つの方法ですが、利用者にとっては「ヒャッ」としたり「ハッ」して事故にならなくてよかったと言ってしまうような未熟な支援者の成長のための実験台みたいなことになってしまいます。実際のヒャリハットを利用者が見たなら腹が立ったもしれません。そして、ヒャリハットした経験から、利用者の行動制限や生活圏の制約へと結びつくこともしばしばです。自分で出来る範囲しか支援できない言い訳にも使われてしまいます。人材育成なら理念に基づいて基本の技能の背景をきちんと管理者や指導者が説明し、付いて教えるべきで、現場を任せっぱなしにした挙句に、自己申告制のようにリスクを職員に押し付けるべきではないと思うのです。