知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

報復するは我にありの話

 例えば虐待の場合、親に非難の声が殺到するようにマスコミは煽りながら、過熱したと見るや熱さましの様な分かった感のある冷静論が出てくることがよくあります。そこでは、法の未整備や政治の貧困、経済や歴史をひっくるめてさも高所から見るべきだという話がなされて一同ほどほどの意見に落ち着いていきます。さっきまで、厳罰にすべきと話していた人も、早々に鞘に刀を納めてしまいます。そして、みんなで次の話題へと移ってしまうのです。法治国家現代日本では、復讐的なリンチや暴力的な発言はご法度ですし、「やられたら倍返しだ」なんてことはドラマだけで、司法に任せるべきですべては落ち着きます。しかし、問題なのは、任せられた司法が、現代に対応していないだけでなく、法そのものも未整備で、時代に追いつけない法に司法はしがみつくように過去の判例に従がっているだけで、実際は現代社会の犯罪や社会問題を解決できる力を持っていないのです。もっと言えば、法や政治が遅れているからこんなことが起きてしまったということの方が多いのです。ですから、加害者の行為に憤慨してお思いを司法に託しても、何もしてくれないだけでなく、何も司法では出来ないのです。その原因は、時代を反映した法の整備をしなくても、先送りをしても、政治も官僚も、責任を問われることが無い状況にあるからです。民法なんて明治の法律が今でも底辺にあるというのが現実です。だから、被害者にとってはあまりにも理不尽だという犯罪が、発生しても司法の判断に、二次被害にあったなどと言うことが発生するのです。法の番人の裁判所は、未整備な法の番人んではありませんし、悪法でも法を守るだけの役所ですから、法の未整備や怠慢によって被害が発生したという訴えなど門前払いしますし、違憲立法審査などと言う判断を出しても政治に簡単に無視されてしまう存在なのです。つまり、日本には、だめ法や悪法でも維持していく責任者はいても、改善しない政治・行政者に加害者としての連帯責任を問うべき機能はないし、発議する責任者もいなのです。法の不備や未整備は、未必の犯罪だというぐらいの追求があっていいと思うのですが、テレビはそこを言わないから、直接の加害者だけでなく、間接的な権能ある未必の加害者までもが逃れてしまうのです。コメンテーターが被害者感情に片寄った報道には、問題があるなどの発言をすることが、加害者と隠れた加害者を擁護していることになるのです。例えば親から子への虐待、テレビから怒りのコメントが多く出ると、公正中立を守るかのごとく、ちょっと待てというコメンテーターがでて来ます。語る内容は、加害者の人権を語り行動は悪いが、加害者にも人権があると語ります。では、加害者は誰から守られるべきなのでしょう。死んでしまった被害者は、加害者に復讐など出来ません。加害者は、司法に拘束されていますから、被害者家族も復讐など出来ません。司法が、死んだ人の代わりに罰を与えると言っても、人権の守られた刑務所で生活することが強制されるだけです。あの女子高校生を拉致して、虐待暴行により致死した遺体をコンクリートに詰めた少年たちは、再び社会で普通に暮らしていますし結婚もしてもいます。殺されるまでの虐待・暴行・恐怖・懇願そして衰弱しながらも一言の非難も出来ない監禁生活の苦しみを加害者は感ずることもなく今も普通の生活をしています。この時も司法の裁ける範囲は本当に少なかったのです。だからと言って両親は復讐することも出来ません。親からの虐待で死んだ子供は、復讐を出来ません。加害者の人権と言って守っているものは本当はなんなのでしょう。マスコミの取材攻勢ですか。刑期を終えた時にはマスコミも忘れていて、生活に支障があるほど追いかけられたりはしません。死亡に至らない場合でも、被害者の回復と言うことが、現在の法には組み込まれていません。加害者を罰することは出来ても、被害者を守ることにはなっていないのです。やられ損と言う言葉が合う状態なのです。犯罪から社会を防衛のために罰はありますが、被害者の被害を回復するということにはなっていず、単に運の悪かった人になってしまうのです。よく誤解されて復讐法と言われるハムラビ法典が今の法の原点だと思うのですが、法典では復讐による過剰な罰を制止して、実際は罪と罰のバランスを如何にとるかと言うことが、重視されています。同様に現在の法も、犯した罪に見合った罰と言うことに基本がありますが、過去の判例を元に、全体が納得することを基本としています。つまり、ハムラビ法典も現代法も被害者の感情でも、被害者救済でもないのです。現実逃避しているとしか思えないほど、被害に対して何もしてくれないのです。ハムラビ法典は、古代バビロニアいわゆるメソポタミア文明の時の物でそんな古きから犯罪に対しての法律があるように、社会には教育・宗教・哲学思想・道徳があっても犯罪は延々と続いているのです。聖書で、右のほほをたたかれたら左のほほを出せというヨーロッパの多くの国で死刑を廃止しても犯罪はなくなっていませんし、刑務所もあります。やられ損の世界は、続いているのです。多くの被害者は、何の落ち度もないままにいきなり被害者になるのです。

 犯罪を憎んで人を憎まずという言葉もありますが、その前提は、被害者の救済がされているからとすべきだと思うのです。親に虐待されて死んでいった子供たちには何もありません。親に虐待されて養護施設に行った子供たちは被害者なのに、さらなる二次被害に晒されることの方が多くなります。高齢者の親切心や家族思いを利用する犯罪が増えても、その行為を罰する法はこんなものかというほど軽く、加害者を働かせて被害額を取り戻すということは通常の被害者では出来ないぐらい法が加害者を擁護しているのです。今日、法が犯罪を防止する役割効果は低下していて、政治家に対しても、虐待にたいしても本当に抑制の効果が薄いのです。それほど日本的社会が大きく変わっているのに、法は追いついてはいないばかりか、その責任を取る人も存在しないのです。こんなことが続くと、被害者が、「報復するは我にあり」なんて言い出した犯罪が起きる可能性もあるのです。これまでの犯罪者には罰を与えるから、被害者を如何に救済するかの視点で法を組み立てなおす必要があると思うのです。