知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

「結局は障害者が身内にいることを隠したいんだ」の話

 平成28年に相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で、利用者19人が刺殺される事件が起きてから2年がすぎても裁判さえ始まっていませんが、慰霊などのたびに死亡した利用者の名前公表が話題となっています。通常このような事件の被害者は子供であっても名前が公表されます。しかし、被害者の家族が「長い時間、社会からの差別を経験してきた」「知的障害者が家族であることが知られると、生活に影響が出かねない」と名前の公表を認めていません。このような態度に対して、勾留中の植松聖被告は「結局は障害者が身内にいることを隠したいんだ」と面会した記者に語っていたということが報道されました。この記事の中には、「1日も娘のことを忘れたことはない」とか「優しい心の持ち主だった」との記事に対して、何十年も預けっぱなしにして今更なんだと家族に対する非難のコメントも多く見られました。「彼らは人ではない」として社会では不要だと、人間としての尊厳さえ否定している植松聖被告からすれば、自己の主張通り、家族だって「結局は障害者が身内にいることを隠したいんだ」本音はね、と言われても仕方がない状況も出ています。実際、障害があろうと無かろうと、成人に達したなら一個人として社会人としての権利と義務を有するというのが今日の考え方ですから、家族の生活や差別のために墓碑銘さえ隠すというのは適切な対応とは言えません。実際に、施設でなくなった方が数百万の遺産を残したので家族に遺骨の引き取りと遺産の引き取りをお願いしたら、お金も遺骨もいらない、絶対に代々の墓には入れないと断られることはありました。また、危篤状態になった方の家族に死に目に会いに来てほしいと施設が懇願しても会いには来てくれず、施設が遺骨にまでした状態で遺産の話をすると、すぐに遺産と共に引き取りに来たということもありました。生前、施設からどんなに要求しても会いには来てくれない家族が、事故で死んだ途端、「目に入れても良いぐらいかわいい子供」をどうしてくれるとすごむこともありました。実際、障害を持つ本人と家族の関係は、非常に複雑で、歴史のある入所施設ではこんな話はごろごろと転がっています。面会にも来ない、自宅へ連れ帰ることもない、施設名の手紙は絶対によこすなという家族もいますし、本人の存在を隠して再婚したという家族も多数います。預けっぱなしで厄介者だとしか思えない、そんな家族に入所施設に勤めたなら誰もが遭遇します。だから、殺された娘のことは「1日も忘れたことはない」と言う記事を見ると、少しでも福祉に関わった人なら、だったら何で施設に預けたんだと言い出すような話になってしまいます。差別と言う被害者である家族が、殺害によってさらなる被害者家族になったことで標準を失い、何か言えば非難される、何も語りたくないというのは、適切な対応かもしれません。その為にも、名前の公表はしないというのも、手段としては適正なのかもしれません。

 しかし、考えてみれば、差別の原因は家族ではなく、障がい者の存在です。植松被告は障がい者の存在を否定しています。今公表したとしても障がい者は死んでいますから、迷惑が掛かるのも家族です。だから、障がい者は、いなくていいと言っています。植松被告の論理で言えば、家族の戸惑いは、植松被告の主張を正当化する良い事例になってしまっていると思うのです。社会の差別と闘うべきだとは思いませんが、名もなき墓碑を作ることになるのは適切だとは思わないのです。誰に誰が殺されたということを語らず蓋を閉めたなら19人の歴史も蓋されたままになってしまいます。それこそ、植松被告の主張と同じです。植松被告に一矢報いるのなら、障害があっても生きていて欲しかったという意思を明確にしなければ、死んだ人間にどんな美辞麗句を並べても報われるとは思えないのです。障害者不用の考えは、健常者の奥底に秘められたヘドロとなって誰もが持っていることだと思います。だから、自分が苦しくなれば、障がい者が敵視されますし、差別の標的にもいつでもなります。そのヘドロを植松被告は、殺人と言う手段で巻き上げました。だからこそ、ヘドロが沈むのを待つのではなく漉くい上げて捨てる機会になることも大事だと思うのです。障害がある人が死んでからいい人だったということよりも、生きていて欲しかったということを証明しなければ、植松被告の言い分を否定できないと思うのです。つまり、逆には、生きている利用者の家族こそ名を上げて話してほしいと思うのです。実際に、入所施設には、プライバシーの公表が出来たならなるほどと社会の誰も納得できて、厄介者払いではなく、事情が許されるなら本当は手元で一緒に暮らしたいと願っている家族も多いということが分かってもらえはずなのです。また、施設に暮らしている利用者の名を上げて家族として公言している人も沢山います。そして生きていて欲しいという願いを持っています。