知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

不幸の手紙が昔あったという話

 人は不幸という言葉を嫌います。幸福はどうですか。言葉には、イメージがあって、人は好む言葉と嫌う言葉を持っています。言われたくない言葉と、言われたい言葉があります。日本の言霊という感覚は特別です。言葉には魂が宿ると考えています。だから、悪い言葉を使うと悪いことが起きると思い込みます。忌み嫌われる「不幸」という言葉ですが、口には出さない本音だと思うのです。そしてそれは、個人の心の真の言葉で周りが推測することも押し付けることも出来ない領域ですが、もっと声に出して考えるべき言葉だと思うのです。

 例えば、障害の親が、障害を持った子供を育てることに幸福を感じたとしても、障害を持っている子本人は、幸福ではないと思うのです。家族の、生きていて欲しいという願いは、重篤な障害や疾病を持つ本人にとっては、不幸の連続への願いになりかねないと思うのです。7歳で亡くなった染色体異常の子の親の幸せは、子の成長する姿であり、何としてもこの笑顔を守ろうと頑張ることができたといいます。幸せだったといいます。しかし本人は、4歳の時に、胃にチューブで栄養を注ぐ「胃ろう」の造設手術をうけ、胆のう炎や尿路感染症になって入院し、7歳頃から心臓の働きが低下し、むくみと脱水をくり返し、腎不全を引き起こし、原因不明の吐血をするという壮絶な闘病生活をするのです。

 医師たちは、治療と生活全体や家族丸ごとを視野に入れるような見方をして、家族に勇気を与え、子の底力を引き出してくれたように感じると母親は言います。

 しかし、障害の親が幸せだったといっても、本人は、痛みと苦しみに理由もわからず他の生き方も知ることなくただただ医療と言う名の元に体に薬物だけでなく注射やら管やらを突き刺され生かされ続けたとしたなら、不幸な人生だったのではないかと思うのです。

もし、健常ならあれも出来たこれも出来たと思うのです。他人以上に欲しい物はなくても、他者が何もしなくても得ている最低の健康や身体について、公平であるべきだと平等であるべきだと思うと思うのです。誰もが、与えられるべきものが与えられないことは、不公平で不平等で、不幸なことだと思うのです。知的障害が無ければ、絶対にこんな扱いを受けないような状況にあるとき、魂は不幸を感じていると私は思うのです。  

 欲を満たすことが幸福とは言えませんが、煩悩と言った欲が無くなることも幸福とは言えないと思うのです。宗教でも、欲があるから悩みが出てくる、だから欲を制限することが必要だとは言いますが、欲が無くなることが幸福とは言っていません。極楽浄土には、悩みは無いと言っていますが、幸せになれるとは言ってはいません。なぜなら幸せは一人一人違いすぎるからです。キリスト教では自殺は厳禁されていますが、神の元が幸せならば、簡単に幸せになりたいのなら方法は自殺になってしまいます。つまり、小さな幸せも大きな不幸も、小さな不幸も大きな幸せも、現生で生きる人間の思いでしかないのですが、それは全て本人だけが感じるもので、周りが期待するものではないと思うのです。

 重篤な障害の中で痛めつけられている本人が表現できない不幸を、周りはもっと気付いてもいいのではないかと思うのです。先の例でも、親はやりつくした満足感は残るだろうし、周りからもよくやったと評価されるのだろう。障害の子どもを持つ親が、この子は私の太陽だと言って出版したり、公言したりしていることに何度も出会ってきました。時には、不幸にして障害になったと表現したら、一斉に非難されたときもあります。では、障がい者は、なぜ保障されるのかという問いをすると、人間の権利とか、人間らしい生活とかいろいろ言いますが、障害があっても公的支援を受けることなく普通の生活をしている人もいます。その人たちに幸せか不幸かを聞いたことはありませんが、推測では無駄な質問と言われると思うのです。何故なら、幸せか、不幸かは、全く個人の問題で、生活の中には幸せな時も、不幸だと感じる時も混在して平均化も、総量化も、比較も出来ないことだからと思うからです。

 だから公的支援は、障害や生活の中で不幸と感じる人に幸せになってもらうために使用するものだと思うのです。たとえが、障害や疾病で、人が振り向くような顔だったりして不幸だというなら、幸せを感じてもらえるまで整形美容の費用を支援すべきだと思うのです。中途障がいは、沢山の不幸を感じますが、幸福になる人もまた沢山います。人は、不幸を感じるから幸せになりたいと願い、祈り、努力するのだと思うのです。重い障害があっても生き生きと暮らしている人の方が多いかもしれません。でもそれは障害を受容しているのであって、幸福になったのではないと思うのです。不幸という言葉を封印して様々な言い方をするのが日本風ですが、自分の中の不幸を追い出し幸せになるには、自分の不幸を表現して、幸せ追求権を行使すべきだと思うのです。障害を持つ人は、周りの人のためではなく、自分自身が幸せになるなる為に、支援が必要だと思うのです。