知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

年寄りの往生際の悪さが意識を変えるの話

 決定的証拠はないけれど、状況証拠は沢山あって誰もが灰色と言うより真っ黒だと思える状態でも、本人たちは絶対に認めないという年寄りの往生際の悪さが目立っています。真実が分かったからそれが必ずしも規則に抵触するということではなくても否定し続けます。倫理規定や道徳観で言えばアウトでも法に触れるという証拠がない限りは嘘をついてでも否定し続けます。言い訳は言いません。なぜなら、言い訳を言うとそこから、誰かがありもしない糸を手繰り寄せるかもしれないと危惧しているからです。過去に言う「沈黙は金」の如く話さないは今日重要なのです。上位の椅子に座ったなら一度でも立ち上がると、横取りされてしまうという恐怖の方が勝って、椅子にうずくまって濁流が去っていくことを待っている無責任な年寄りが闊歩する時代なのです。

 その原因を作った一つは現代のテレビ放送にあると思います。一般にキー放送局と言われる放送局でも5局以上あるのに、一つのテーマを延々と同時間に放送し続けるということが頻繁に今日では起きています。お互いに、独自性を語るのでしようが、同一テーマで数局を比較検討して評価して選局している視聴者は限定されますから、一般にはどこを見ても同じと独自性なんかには理解してくれません。放送は、一つの話題で一斉に始まり一斉に引いていくのです。あの事件は、その後どうなったなんて思ってもテレビで知ることは出来ません。一時的なお祭りの様な盛り上がりなら今日のテレビに期待できますが、継続的な経過や終結の話題は見られないのです。ですから、当事者は、大騒ぎになっても、じっと何もしないで逃げ隠れして、絶対に認めないということをしているうちに、テレビの方が勝手に消えていくのです。どんなに真っ黒と言われても、ただじっと待っていた方が確実に、地位もポジションも守り切れるのです。また、テレビのコメンテーターがショーになるように無責任なことを言い続けるということもあります。ショー仕立ての編集と話題を優先するテレビは、現代マスコミの早変わりの代表で、どんな悪人でもテレビに話題を長期間にわたって提供し続けることは困難なぐらいです。そして、口々に真実をと言いながら司会者も出演者もその情報量は本当に上辺だけでしかないのです。即時性よりも、掘り下げた報道を行おうという姿勢がありませんから、真っ黒な人でも自分が真実を喋らない限り、バレやしないという自信さえ持ってしまうような環境なのです。それに、真実を状況証拠から導き出そうということには危険がともない、冤罪を生む可能性も否定できません。

 こんな状況に昔はこんなじゃなかったという人がいるかもしれませんが、今や地位ある人の背景が大きく変わったことを知れば納得のいくことです。古来の日本では、往生際の美学があって周りに突きつけられて引退するのは恥とされ、出処進退は本人が、周りの状況を察して決めるという暗黙の了解がありました。その背景には、家父長制を含めた、家制度、氏族制度があったからです。その中では、個人ではなくその組織のために身を引くということが日本の礼法だったからです。そこには、個人ではない、家、氏の代表としての自分がいて、自己の保身ではなく、家や組織の継続のために自分が存在し、よりよい状態で次の人に渡すために、往生際が規範としてあったのです。守るべきものを自分が傷つけてはならないということが、続いていくための大事な方法であり、集団の代表としての統治意識でもあったのです。つまり、個の継続ではなく、集団の継続としての礼法があったのです。ところが今日の地位は一代限りで、「氏」と言われるような繋がりでのし上がったのではないのです。すると、一代限りの地位ですから、しがみ付くことが出来るなら少しでも長くと考えることは普通の成り行きなのです。昇り詰め過程わ見ても、一度も一族の支援など受けず、自己の努力でここまで権力を確保してきたのですから、誰に何と言われようと手放したくはないと思っても不思議ではないのです。

 つまり、礼を重んじた日本の礼法は基本が崩れてきているという事です。一代限りの立身出世に関して、けじめを付けさせるシステムも作法も日本にはないのです。その為、年寄りの往生際の悪さが最近になってやたらと出てきているのです。しかし、日本の意識の底辺に残存していた家族制度の根幹は、こうした地位ある年寄りの無礼によって瓦解しているのです。日本文化を誇り自慢していた地位を持った年寄りの往生際の悪さによって、その根本礼法は否定され、意識の変革が今進んでいるといえるのです。