知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

虐待の加害者は被害者意識に溢れているの話

虐待の父母が、罪悪を告白し悔い改めることなど想定しない方がいいの話

 虐待する人には、それなりの理由があります。社会からは非道、人間じゃないと言われようと本人にはその感覚を失わせるほどの理由があるのです。東京都目黒区の船戸結愛(ゆあ)ちゃん(5)が虐待を受けて死亡したとされる事件でも、子どもの書き残した親への謝罪の言葉のメモが繰り返し読まれることによって、聞くものからは親への非難と罰は当然だと誰もが思い、刑務所で反省すべきと考えています。そして、逮捕された父母は今になってとんでもないことをしてしまったと後悔と懺悔に打ちのめされていると思い込んでいます。しかし、そんなことはありません。

 私の想像では、父母の思いは、「あの子さえいなければこんなことにはならなかった」です。母親は、あの子を産んだことが間違いだった程度ですし、父親は、あいつのために俺の人生は台無しになった程度だと思います。なぜなら、子供はいつでもかわいい存在ではないからです。時にはにくったらしい時もあるのです。そんな時は、親として怒り、体罰を含めて支配者として対応します。障害がある子はこの時この支配関係を学ぶことが出来ませんが、能力と環境によって子供はこの支配関係の中でどのような態度が自分を守ることになるかを学びます。上手な子供は親に嫌われないように適応しますし、下手なこは、にくったらしい子になってしまいます。そんなことは兄弟間でもありますし、家族の中でもある事です。しかし、今日の家族単位の密室的環境で、にくったらしいが時々起きると、親は自分の支配権が脅かされているという不安と危惧のために攻撃的になります。小さな抵抗でも憎しみとして感じてしまいます。そんな感情がある家庭の子どもを、児相が二度も施設の一時保護をしたということは、親の子どもに対する憎悪をあおったとしか言えません。一般的には、親には愛情があると信じていますが愛情は本能ではなく経験です。特に父親には、経験によって育まれるもので、父親としての機能が子供が生まれたことで発動するものではありません。その一方で、父親ですという意識だけは高くて、自分の支配権の中で指示すれば何とかなると思い、子供を小さな大人としてしか見ないので、泣き止まなければ殴るというのもこの思考の範囲です。小さな大人感覚は、言葉で言い、罰でコントロールしようとするのです。そして、そんな誤った考え方でも、他人にとやかく言われたくないと思いこむのが父親の支配権でもあるのです。

 そんな意識しか持ちえない父親や母親に対して、他人である児相が介入するということは、現代では、親失格というレッテルを張られたという意識を作り出していると言わなければなりません。反発できない児相や世間体への不満は、にくったらしいお前のせいで、こんな個ことになったと爆発的に子供に転嫁していくのです。子どもの支援にかかわる自治体職員が「子どもを長い期間見守るためには、親との信頼関係を築くのが一番大切。警察と訪問した途端、態度を硬くする親も多い」と話すとの記事もありましたが、本当に信頼関係が築ける間ずっと虐待は続いているということに着目されていません。自治体職員が帰るたびに、子供に仕向けられる「お前のせいで」と言う虐待に子供は痛みと苦しみに晒されているのです。そして、児相と信頼関係などきれいごとで、そんな関係が出来るぐらいの能力のある父母であるなら親が疾病でもない限り児相が介入する状態にはありません。なぜなら役所の人間は人事異動があればあっさり変わります。人間関係の引継ぎなど出来ません。しかも、虐待関係では、児相に従うか従わないかの関係が基本にありますから、上下関係の中で、信頼関係など出来るはずがありません。児相は、言葉、物腰は優しいかもしれませんが、育児については、結局、親に説教し、虐待行為を止めろ人間的な心を取り戻すという監視役でしかなく虐待者としてのレッテルを張られた親の憎悪をあおるのです。児相が訪ねてきただけでも、世間からは親失格なのですから、仲良くしていても疑われるでしょうし、子供の泣き声が聞こえれば通報するでしょうから大声で泣けば、泣くなと殴られることにもなります。

  そのいい例が、先日発表された、厚生労働省の資料です。この資料によると、08~15年度の8年間で心中以外の虐待で亡くなった子は408人で、その中の約4人に1人は、児相が関わったことがある子どもだったということです。つまり、児相が関与することが、小さな命を救うことには繋がっていないという統計なのです。それなのに、今だに、専門家は、児相と関係機関の連携の必要性を指摘するのです。今、児相の出来ることは、せいぜい説得と監視と親子の分離だけです。本当に必要なのは、父母の保護とプログラムなのです。近所を含めて育児失格と評価された父母の保護が出来ていないのです。子供は危険だと一時保護するのですが、親には、お前が悪いのだから自分で反省しろとして世間に晒すだけなのです。まして、父親だというだけで家庭の中で支配権を持つだろう、夫の為のプログラムはないのです。日常生活の中で子供が「にくったらしい」と感じた時の対処の仕方や子供がかわいくない、手に負えない態度の時にどう自分の感情をコントロールできるかを学習する機会はないのです。世間もマスコミも、子供が正義で、親なのだから当たり前だと総論として強制するだけで、各論はなく、子供は我儘で手に負えないときもある時の手段方法は教えてくれないのです。しつけなんて曖昧な言葉が虐待の言い訳になっているのに明確な否定もしない専門家と世間があるのです。そして、独自の方法が失敗すると、子供に対して態度が悪いといい、育児の失敗として、取り上げることしか出来ないのです。

 ですから、児相の思いとは逆に、親から子供を取り上げることで一番傷を負うのは子供なのです。多くの子どもは、自分が悪いから親が叱られたとしか解釈しないのです。。子供は適正な育児の比較は出来ません。自分の家の方法しか知りませんから、自分が虐待されているということよりも、自分の性で家族が社会から制裁を受けているということに申し訳ないという感情の方が醸成されます。つまり、被害者が自己嫌悪に陥ってしまうのです。それに反して、親はあの子のせいでという憎悪を強く意識し始めます。そのような感情を持つ双方を再び一緒にすれば、子供は親の支配下の中でもがき、お前のせいで俺が、社会から非難されたという思いのままに、虐待へと向かうのです。

 つまり、子供が死んだということで、誰もが子供を助けられなかった児相や関係者を非難し、児相を強化すれば、人数を増やしさえすればと思っていますが、私はそうは思えません。子供を保護するということが、家族を保護することでなければ、子供を虐待する環境は変わらないのです。そして、いじめであれ、虐待であれ、学習の心理学で見破れるほど簡単ではありません。児相の職員んであっても、支援者であっても、分かっていないのです。いじめも、虐待も、初めは「にくったらしい」と感ずるちょっとした感情のずれ程度から始まっていきます。そうなると、被害者の抵抗は、反逆であり攻撃に見えます。すると被害者を支配下に置くまで徹底するし、支配下に置くほどに不安感が増してきます。被害者への洗脳が続いていくなかで、加害者も麻痺していくのです。虐待と言う学習と経験によってエスカレートするのです。

 結愛ちゃんが、「もうご飯を食べられない」と死亡する数日前、食事を与えようとした母親に声を振り絞って弱々しく話していた時に、母親は、ぼんやりともう死んじゃうんだなと感じたはずです。でも、病院へ連れていこうとか、何とか食べさせなければという感情はすでに麻痺していたと思うのです。あばら骨が浮き出るほどやせた体を見ていた母親には、もう何かをしようとする意思はなくなっていたと思うのです。だけど、父親も母親も、ちゃんとご飯を食べて、風呂にも入り、時には笑っていたと思うのです。そこに死にかかっている子供がいるということではなく、存在を否定したい「子の子さえいなかったら」の思いが支配しているからです。こんな環境の、ゆあちゃんは、児相が関与しなければ将来、弟の召使いのような生活となるぐらい差別と格差の生活を強いられていたと思います。

 現代の子ども保護制度は、親子を分離するだけで、親は悪役です。親に、反省させ、立ち直る機会を与えるように見えますが、親に子どもへの憎しみ醸成し、子供を追い込んで帰る家をなくしていきます。だから、家族丸ごとの保護が制度として必要ですし、家へ帰すのなら、虐待された子供が、親の憎しみに対峙でき、支配下から抜け出た時まで待つべきだと思うのです。