知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

パワハラは、組織が作るの話

 俗に言うパワハラは、本人が自覚できるわけがありません。なぜなら、本人は正しいこととしか認識していないからです。もともとパワハラは、日本風の造語で職務上のことでのトラブル、通常の指示や命令の延長上の行き過ぎとしてとらえられがちです。しかし、この言葉の原点はフランスの精神科医が提唱した、『モラル・ハラスメント-人を傷つけずにはいられない』であって、そこには明確に、加害者に加害意識や罪悪感がなく、被害者が自己否定・自己嫌悪に陥るような、巧妙な精神的暴力による支配関係モラハラの特徴的な点とされています。モラハラという言葉が、知られるようになって、パワハラとかボスハラなどが出てきましたがその基本である加害者に加害意識や罪悪感がないと言う大前提をなくしてしまうと「愛のムチ」的な同情論や行き過ぎにすぎない論で終わってしまうことが多くなるのです。ですから、加害者が被害者がいると認識できない限り自分は良いことをしている、自分が正義だと信じて行っている行為なのです。特に職務上で言えば、先輩なり上司なりの成功体験を再現するための技法なり精神なりの伝授であるという言い訳に一理あるとなってしまうのです。人間はそれが万が一の偶然で成功しても、自己の手法に対しての成功体験として強いこだわりを持ちます。それはあらゆる学問研究以上の意味を持ち、他者の意見を退けます。その必勝方法が仮に絶対確実なら強制的な押し付け対応も受忍する判断として検討も出来ますが、本人自身でも状況が変化すると成功しないことまでが成功するかの様な幻影に拘って強制することに人間性と社会性が問われるということになります。そして、成功しないことが指導が悪かったという自己反省に向かうことはなく、相手の努力なり手法が悪かったからと叱責になることがやがて、被害と加害の関係に発展するのです。それでも日本では、師弟関係と言う暗黙の社会通念がありますから師匠となれば弟子に対して憎しみで対応しているはずがないという仮想の思いこみまで含まれてきます。その為簡単に加害と被害なんて認識にはならず、いつでも、度合いの問題とされてしまうのです。要するに、師弟関係的に物を見てしまうと、社会通念上の許容範囲かどうかだけが争われ、その中の人間性や対人関係性を掘り下げるということはないのです。だから、お世話になっている師匠に弓引く行為をする方にもともと何か問題があったのではないかとなって熱血すぎて行き過ぎがあったかもしれないが、自分は悪くないという結果になるのです。それにも関わらず、パワハラの解釈として職務上の立場や権限を背景にしたいじめや嫌がらせ行為を指すとか、不当な評価や叱責、無視、冷遇、執拗な強要などと内容に重きを置いて考えようとするから、評価そのものに客観性がなくなってします。価値観や方法論での感想になってしまうと思うのです。つまり、上記のようなことは労働法で言う、不当労働行為として整理する方が明確になります。しかし、組織にはそれなりのおきてが混然とあって、問題なのは、加害者は組織のために良かれと思って行っており、感謝されている、いや将来必ず感謝されるという自信さえ持っているようなことで、夢にも自分が加害者で、被害者がいるなどと想定だにしていないことです。職場では、社風と言うか、伝統と言うか、根拠さえ分からないが尊重することが求められる事項が結構あります。しかもそれは、社会とはずれていても、厳然と成立しているもののがあります。その延長線上にあることは正義の延長なのです。パワハラは、この延長線上で組織のために組織には指示も命令も受けることなく個人的解釈で良かれと思いこんでその支配権をフルに活用して個人の気持ちで行うことであり、個人の行為ですが組織が生み出すものなのです。だから、厄介なのです。原点が組織にあるのに、非難され、罰せられるのは個人で、組織は逃げてしまうのが現実なのです。

 パワハラに至る基本には、初めからそうなるのではなく、職員育成という大義があるのですが、部下育成の始まりの時には人の上に立ったという浮ついた気持ちと、部下育成が自分の評価になるという自分が評価されたいという思いです。つまり、上司に自分を認めてもらいたいという一心で結果を部下が出すために教え込むということになるのです。それで成功していくと、部下を育成することよりも、成果の出せる部下が欲しくなり、成果の出せない、自分の評価を下げるような、自分を貶めるような部下を、支配権を個人の感情に任せて行使していくことがパワハラとなっていくのです。

ですから、支配関係のある組織だから起きることで、自己評価を高めるために部下を持っていない場所では起きないのです。パワハラも、自己の利益がなければ自己破滅だぐらいは誰だって気付きます。