知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

少子化なんて年寄りの我儘の話

 少子化が問題だとテレビ等でも取り上げられていますが、何が問題なのかを調べてみると案外年寄りの我儘と押し付けなんじゃないかと思うのです。まず少子化の問題点として、人口の減少で経済面の打撃を受けると言い、日本の様な資源を持たない貿易立国は経済が立ち行かなくなれば、生活水準が下がり、社会保障も低下して、年金で生活できなくなり、介護その他の社会的扶養も出来なくなると言います。そしてそれは若い人に大きな負担となるとも言います。でも、よくよく考えてみれば、若い人は今の日本の生活を維持したいと思っているのかなと言う疑問が湧いてきます。もう一つ、過去は老人の扶養は家族でしたが、こんにちは社会となって国家が、税金や保険で扶養する方式に変わりました。でもそれは個人扶養から、集団扶養に変わっただけで、若い人に面倒を見てもらおうということは変わっていません。すると、少子化問題は、今の生活を維持し続けたい老人の願いを叶えるためには若い人が必要だというだけに聞こえてきます。今の生活は、老齢期に入った世代が確立したことは事実です。しかし、右肩上がりのグラフしか認めない時代の世代が確保したこの体制を維持したいと次の世代が思っているとは限らないと思うのです。例えば老後設計でも制度そのものに問題があるということがあります。年金制度は、積み立てているような感覚で保険料を払っていますが、積み立てているわけではありません。今払っているのは、今の年金時給者に渡されているのです。支払われたお金が積み立てられて利息や運用益なんかが入って老後に還ってくるのではなくその時の受給者に支払われる方式を日本は採用しています。ですから、受給者が少なくて、支払者が多ければお金が余るということで、人口増加の時には、社会保険庁が土地投資したり無駄遣いしたり出来たのです。少子化になるなんて想定もせず、人間がこんなに長生きするなんてことも想定せず、右肩上がりに人口が増えるという想定で、今集めたお金を年金として渡してもあまりが有ったので積み立てるなんてことは考えもせず大盤振る舞いしたこともあったのです。ところが、100歳を超える方が1963年には153人、人口10万人あたりわずか0.16人だったのに、1998年に1万人を突破し、2012年には5万人で人口10万人あたり40人を超えるまでになりました。過去には、100歳を超えたら自治体からもお祝いが貰えるぐらい珍しかったのですが、今は普通にいるということです。そして長生きできるという喜びに対して超高齢化社会などと言って、誰が面倒見るのだという問いに対しての答えを少子化問題にすり替えていると思うのです。つまり、年寄りの面倒を見る金を少しでも多くの若者に稼がせるためには、少子化では駄目だと言っているにすぎないと思うのです。よく、一人の年寄りの年金を、今は何人で支えていますが、10年後はこんなに少ない人で支えなければならないのです。などと説明していることがありますが、若者に頼った制度設計をするから、年寄りに合わせた若者人口が必要だとなってしまうと思うのです。 

 明治時代の初期は、日本の総人口は、約3500万人と言われ、明治45年に、5000万人を超え、昭和23年に、8000万人を超え、昭和31年に9000 万人を超えました。この時、「厚生白書」では、急激な人口増による「過剰人口」対応が、政策課題などとした状態で、制度設計していたのです。このように 明治から100年で人口が3倍になるという人口拡大期に制度設計し、初めて訪れた、人口減少期になって、制度を維持するために少子化などと言っているとしか思えないのです。2003年(平成 15)の1億 2,760 万人がこの日本列島にとって最適な人口なのかと言う問いは必要だと思うのです。人口=国力みたいな考え方は捨てて、この国土には一体どれぐらいの人口が養えるのかを考えることも必要だと思うのです。順番に死んでくれるはずだった世代が長生きして生活費に医療費に金が掛かるから少子化を考えるのではなく、若い世代はどんな生活を望んでいるのかの視点から人口を考えるべきだと思うのです。自分たちで制度設計し右肩上がりでなくなった途端に若者よ子供を産めではなくて、若者の扶養に頼らずどうしたら長生きもいいもんだと言えるような制度となるように再構築すべきだと思うのです。