知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

嘘つき薄葬令から、権力者の裏事情を邪推する話

 日本書紀によると、大化2年(646年)の改新のなかで薄葬令が規定されたと書いてあります。内容は、中国の故事に習い、民衆の犠牲を軽減するため、王臣と庶民の身分に応じて作ってよい陵墓を制限し、人馬の殉死殉葬を禁止し、陵にかける時間を7日以内に制限するなどの制限が加えられたというものです。この記述を元に歴史学では、古墳時代は終わったというのです。ここからが邪推なのですが、では何で古墳を作っていたかということから考えてみたいのです。一般的には、権威の象徴と言われますが、広報媒体のないこの時代では、現地へ行かなければ壮大な古墳も見られませんし、多くの地方の住民は旅行で移動などしませんから、視覚的権威としては何の効果もありません。首長クラスでも戦争でもない限り自国を出ることはあまりありません。第一、死んだ人間にそんな大工事をして見せなくても、現在権力を握っている人間にしてみれば何の意味もありません。この時代は、まだ権威や象徴で権力を手に入れる環境ではなく、戦いで入れ替わる時代ですから、父はすごかったなどとでかい墓を作ったところで近隣豪族や人民を含めて古墳を見てひれ伏すなんてことは考えられません。むしろ、日本書紀の記述にもあるように、民衆の犠牲や資材が多くかかる負担の方が多いものですから、権威の象徴にはならないと思うのです。むしろ権威の象徴として、装身具もたくさんつけていた時代ですから、死んだ人間のために墓に金を掛けるより、装身具や武具で権威づけして示威行進でもしていた方が遙かに効果的と思うのです。ところが、古墳と同様に装身具も無くなってしまうのです。つまり、権力の象徴と考えられる古墳も装身具もこの薄葬令によって禁止されたのでなくなったというのです。大化の改新で、地方を従わせる中央集権国家を目指すには、権力の誇示が必要なのに、否定したというのです。このことからも、古墳は権力の象徴ではなかったと思われるのです。現在の視覚技術だから上から見たり出来てすごいと思われますが自分たちの目しかなかった時代には多くの人に視覚的偉大さの強調にはならなかったと思うのです。

 そこで古墳はなんのために作られたかと考えると、古墳は墓ではなく、復活のための施設だったと考えることも出来ます。つまり、中国では、死後も生前と同様の生活がつづくという考えがあって、秦の始皇帝の陵墓に附設された兵馬俑が有名なように、偉い人の復活のために現実で使用される道具のミニチュアや紙でつくった貨幣などが副葬されるということがあります。ビラミットなども復活のための施設とも言われています。ですから、古墳にも生前と同様の武具や生活用品、殉葬としてあの世で仕える人が副葬として必要だったのです。死んだから終結としての墓ではなく、復活してくるための城だったとしたなら貴重な武具や装飾品を入れなければなりませんし、他者に攻め込まれないように厳重にしなければなりません。しかし、そんな復活思想を持たない人々からすれば、古墳なんて無駄以外の何物でもありません。そう、朝鮮半島における王陵の発掘成果によると、中国的発想はむしろほとんどみられないとされています。この当時日本は百済と交流がありました。そして、百済新羅に滅ぼされます。百済の貴族を含めた難民が日本に来ています。仏教は百済からもたらされました。仏教に復活の思想はありません。大化の改新などにより大和朝廷は地方豪族を押さえ中央集権国家へと変貌したと言われますが、その実務を担当したのは百済の人間で、もともと百済で実施していた土地の領有を宣言し全ての土地と人民は天皇(百済王)に帰属するとした公地公民制を大和朝廷の中で行ったとしても不思議ではないのです。地方分権から、中央集権に変わるのですから、地方の反発は相当あります。それを正当化し従わせる武力とイデオロギーが必要ですが、内部から沸き上がったとは思われないのです。もっとあります。持統天皇は703年に崩御したのですが、彼女は天皇で初めて火葬されただけでなく、自身の墳陵を持たず夫の天武天皇の墓に合葬されたのです。火葬されてしまったら二度と復活することは出来ないのです。それを後継者が行うというのは異常です。しかし、反対もなく出来たということです。これらのことは何を意味するかと考えると、権力機構の交代があったのではないかと思われることです。実は、古代政権は、親密だった百済の亡命者たちに平和裏に乗っ取られた可能性が高いということです。同じことは、明治維新でも起きていて、陰でイギリス、ドイツ、フランスが動いていたことは事実でその後の憲法だけでない実施内容は、地方分権から中央集権へのおおきな変革です。よく見る聖徳太子の左右にいる皇子の髪型だった先祖伝来の髪型もちょんまげに変わりますし、服装も大きく変わります。伊勢神宮遷宮は復活であり、若返りであるように、天皇が変わるたびに遷都していた宮殿も首都として固定されていきます。日本書紀に根の国、古事記には黄泉国という表記で表される地下の世界が実は否定されることが起きているのです。歴史の記録は、自分の正当性を表現したものですから、自分の都合よいように書くのが当たり前ですが、この時代には、歴史なんて認識はありません。しかし、中国と付き合うには、中国同様に、国書として国家の記録があることが必要でしたから、中国などに見せるために作られたのが、古事記であり日本書紀なのです。ですから、そんなもんがあることさえほとんどの人は知らなかったのです。その程度ですから、史実が適正に書かれているわけではありません。特に、どんな資料に基づいて書かれたかの記載もほとんどありませんから照合することさえできないのです。ところがその中で資料として使用したと書かれているのが百済の国書なのです。

 とまあ、こんな風に邪推しながら歴史を見てみると面白いですよ。