知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

芸術はコミュニケーションではないの話

 芸術は、国際共通の言葉などと説明されて納得している人は多いのですが、芸術は一方的で言葉のようにコミュニケーションを、図る道具とは全く別物です。言語は、相手に自分の意志を伝え相手との確認をすることの道具として最良ですが、芸術は、一方通行で感じ方はさまざまで意志を伝えることは出来ません。一枚の粘土板の文章は古代の意志を読み解くことは出来ますが、古代の彫刻や絵画からはその意思を読み解くことは出来ません。また、言語は技能を必要としませんが、芸術は技能を必要として日常生活用品ではないのです。そして、芸術は、絵であれ、音楽であれ、時代背景や状況で解釈さえも変わってしまいます。例えばワグナーはドイツでは、注意すべき音楽ですが日本人の多くは関心がありません。しかし、日本の軍歌がテレビの懐かしのメロディーとして特集を組まれることがないように戦前と戦後では評価は一変しています。軍艦マーチにパチンコ店を思い浮かべるのは年代で、軍歌は、カラオケ店か、街宣車でなければ接することはほとんどないぐらいに、特定の考え方として一般的とは言われません。特に、政治として利用された芸術は、その作品としてではなく、政治の広報媒体として特定の解釈がされてしまうからです。芸術作品は、作品としての自己主張があっても、言葉として話さない限り、相手には伝わらず、相手の都合のいい解釈によって、利用されてしまう危なさを持ち合わせています。

 人間の感性も、生きている、生きてきた環境で、感じることも、表現できることにも大きな違いがあります。むしろ、人は感じたことを、思うようには表現できないのです。言葉であれ、身振りであれ、絵や、音楽を使っても、自分が感じていることを何かを使って表現しようと試みますが、結果はいつも納得できないのです。特に、相手に分かってもらおうという企てを含むと、尚更に、自分の感じたものを表現しているつもりでも、歪曲してしまうし、歪曲して感じられてしまうのです。ですから、二人で、同じ風景を見ても、同じ感動にはならず、近似値としての状況の中で、それを双方が表現すると相当の違いが出てしまうから、素晴らしいとか、美しいとか、短い言葉でしか表現しないのです。現代の芸術教育は、このように感じるべき、このように感ずると訓練されることによって共有できるようにしているだけで、ピカソの絵を見てなるほどとは中々思えないのはその為です。例えば、西洋の楽器は、比較的人間の感情表現を再現しようとしていますが、日本の雅楽の楽器は、人間相手ではなく、神であったり自然を表現するものです。それを東儀さんは、西洋音楽の楽譜を当てて、楽器としてなんにでも使えるよと証明してくれますが、それでは雅楽器も世界の珍しい楽器の一つになるだけです。なぜなら、雅楽器のひとつ篳篥(ひちりき)は、西洋楽器で言えばオーボエとも言えますから、演じるならオーボエの方が優位です。しかし、篳篥が演じるのは、「龍」ですから、オーボエでは龍は演じられません。龍が、西洋旋律を演じることはカラオケのごとくできますが、信仰としての龍の声は、全く別物なのです。また、和太鼓のサークルも沢山あるのですが、打楽器としての凄さはわかっても、結果として何を表現しているかを、もし聴衆に確認したとしてもほとんど望むような回答を得ることは難しいと思われます。アフリカの太鼓に会話ができるシステムがありますがそれはお互いがすでに確認しているだけで、突然では理解不能になります。つまり、楽器には、人の思いということ以上に時代背景や信仰ということとの関わりがあって、聴衆に聞かせるものから、神に捧げるものなど様々で、今では土産店でおもちゃのように売られているアイヌムックリは、自然や神との交信であって観客が聞いて感動し理解できるものではありません。

 芸術というのは、何かを促す効果はあります。風と音は、自然にあり、叩いても、引いても音は出ますし、岩に線を書いても、土を塗り付けても形は確認できます。声を出し、体を動かせば、様々な表現も出来ます。ですから、芸術は、呪術的で宗教的に多く利用されてきましたし、雰囲気づくり気分の統一には便利なだけに政治にも、戦争にも常に活用されてきました。だからこそ、芸術は世界の言葉などと、綺麗なものにしてしまうと、詐欺にあってしまいかねないのです。芸術は、自然と同じように、常に一方通行でコミュニケーションにはならないことを知っておかなければならないと思うのです。一方通行だから相講釈師がついて、利用されてきた歴史があると思うのです。だから人間は、音を言葉にすることで、コミュニケーションを考えてきたと思うのです