読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

宗教の感染力の話

 宗教というものは、日常は落ち着いていますが、時代の変わり目や変革期に弾けるように広がることがあります。そしてそんな時は、考える暇も与えないような感染力を持って広がることもあります。宗教の危険な部分は、教義を最終的に突き詰めていくと同じようなことを言っているのに、それぞれは、それぞれの主張が正しくて、相手を敵として攻撃することがあるということです。哲学や思想などは、政治とか権力とかが関わってこなければ考え方として対立があっても攻撃的になることはまれで、偉そうにしているということはありますが、一般的には無害な場合が多く見られます。ところが宗教は、経典が一つでも、その中のどの部分を柱にするかで宗派の分裂ということが繰り返されたり、同一宗教の中でも、相手を攻撃したりすることが見られます。つまり、同一であることを求めることはいいのですが、同一の中身が少しでもずれると制裁などということもあります。その為、宗教集団は、時として人間性さえも否定するような行動や行為をすることがあり、ニュースになることもあります。日本の歴史でも、一向一揆など宗教集団が利用されたりもしていますし、世界史の中でも、宗教による争いやトラブルは繰り返されています。原点となる宗教では人間の生き方について指し示しているのに、どんな解釈をすればそんな行動が許されるのかというぐらい、自分たちの正当性のため相手を攻撃することもあります。そこには、原点としての宗教よりも、後世の人間が宗教という遺産を現世の自分たちの利益のために使っているのではないかという悪用とも思える利用もあります。つまり、宗教の総体をみるなら、良いことばかり教授しているように思えても、部分としての解釈では、攻撃も正当化されてしまうのです。宗派というものも同様に、原本があっても部分は、バラバラに活動し、互いにけん制しているということまで見られます。

 そんな宗教は、社会の不安や漠然とした恐怖、個人の悩みに付け込んで一気に広がるということがあります。この時の感染力は壮大で、政治権力も脅かすということが歴史の中でも見られます。人の心は、何かの切っ掛けがあると、一気に吸い込まれるように凝縮するように集合しその中に紛れ込むことで自分を守ろうとすることがあります。平穏な時期にはそんなことなど起きないと誰もが、人間の理性が止めると思っていますが、その時が訪れると誰も知らなかったような、泡沫の宗教が急激に拡大し理性ある人々が吸収されていくという事態が発生します。現代の日本では、得意げに無宗教だという人が多くいますが、実際は宗教として活動している人は沢山いて、聞いたこともないという宗教団体は数限りなくあるのです。何かの事件があって初めてそんな宗教があったんだという人も多いのですが、宗教団体はいきなり出てくるのではなく、日常地道に活動をしていることを知るべきです。そして、何かの切っ掛けで感染力を持つと一気に拡大し、個人や家庭をも飲み込んでいくのです。それは、逆に無宗教だなどといっている人の方が新鮮に吸収しやすく、何かの宗教に関わっている人の方が免疫があることとも言えます。混迷する社会にこそ姿かたちの見えない宗教は感染しやすくなります。その宗教が排他的でなく攻撃的でなければいいのですが、現実には、感染力を持つ宗教の方が、強い攻撃的志向がある場合が多いのです。感染しないためには、無宗教であることではなく、免疫をつけるためのいろんな宗教を学ぶ機会も必要だと思うのです。宗教の自由とは、学ぶことの自由だと思うのです。