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知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

教育勅語の利己的利用は歴史を知らないの話

 歴史を調べてみればどんな政治にも哲学にも思想にも、巷の教えにも、時代の背景を背負った良いところも、悪いところもあるというのが事実です。悪ければ、歴史には残りませんし、良い物なら、現代にも延々と引き継がれています。つまり、時代を背負って作られたものには、その時代として求められるものがあるから作られるのであって、その役割を時代が求めなくなれば、目的を失い歴史の一つの資料でしかなくなってしまうということです。最近話題の教育勅語も、作ったのは当時の政治であり、学者の意見や過去の民生を考慮しているでしょうから、現代に通じる文言が入っていても何ら不思議ではありません。いわゆる、徳目なんて言葉が並べられていますから、大臣までが良いことが書いてあるのだと言い出せば、なんとなくそんなに悪く言わなくてもいいかな。なんてことにもなります。しかし、ちょっと違う視点から見てみると、自分の都合よく利用しているのだなと気が付くのです。教育勅語は、明治天皇が出したものとされて、保守にとっては天皇の言葉として重要なはずです。ところが戦後孫の昭和天皇は、これを否定するのです。否定した事情が米軍に言わされたとしても、そうでなかったとしても、教育勅語を持ち出す連中は、トップの昭和天皇が否定しているのに爺さんが言っていることが正しいと主張して反抗しているのにすぎません。侍ならば、現殿様が戦に負けたので爺さんの言っているやり方では駄目だ新しいやり方で国を守ると言っているのに、爺さんのやり方を復活させたいと主張しているのと同じです。天皇を仰ぐのなら天皇の言葉に従えとしか言いようがありません。そんなに素晴らしい徳目なら、天皇の権威を借りて言わなくても、自分の言葉で主張すればいいのです。実際、民法では、戦前のままの条文が戦後70年たっても生きています。法務官僚を含めた怠慢でもありますが、トップが否定しなければならなかったのは、中身ではなく何の目的に使われていたかということにつきます。その目的が失われたから否定し、歴史の資料となったのです。

 同じことは、歴史の中にたくさんあります。歴史に出てくる偉人達も良いことも悪いことも話しています。どんな本を見ても、いいことも書いてあるし、否定されていることが書いてあることもあります。大切なのは、一部の部分ではなく、総体として何を言いたいのかを読み解く力が必要だということです。ところが、利己的な人は、全体を読み解くよりも、自分に都合のよい言葉だけを選別して強調するということがたくさんあります。ですから、自分の都合の良いところを組み合わせて利害が発生することもしばしば起きるのです。利用する方は、自分に都合よく解釈し、その知名度を引き合いに出して権威づけようとします。悪用されたと相手が思っていたとしても、利用する方は勝手です。結果として、自分の利益のために使います。天皇を利用する、復古としての保守にも、そんな輩がぞろぞろといるのです。天皇を尊敬するのならすべてに従えばいいのですが、こういう人は自分の都合の良いところだけ従ったふりをします。昭和天皇は、確実に戦後これを否定し、米軍から自由になっても、教育勅語を否定しました。その事実だけで十分なのです。そんなに教育勅語が好きならば天皇という権威を利用しないで自分の言葉で再生すればいいのです。教育勅語の、一番よくないところは、日常生活の徳目を実践させる部分は、総体のためにあるということです。つまり、総体というのは部分から成り立ってはいますが、部分にはそれぞれの役割があってその役割を果たすための訓練が徳目になっているからです。よく言われる例えで言うなら、人体で、リーダーは頭で、その他は内臓であり、皮膚なのだから、それぞれの部位で最大の力が発せられるように訓練しておけというものであり、多少のケガが、手足にできても仕方がないし、不要なら切り取ることもあるということでもあるのです。頭は偉く替えはないが、手足の傷ならいくらでも替えはあるという臣民意識の習得が目的となっているから否定されたのです。権威づけに歴史の資料を持ち出して利益を求める輩は繰り返し出てきますが、そんな輩に振り回される現代の社会があるのも事実です。