知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

精霊はいますの話

 監視カメラをはじめとして、画像による証明が今は一番有効になってきました。そして映像という視覚で確認できることが正しいと、映像を疑うことなく無意識に判断している現実があります。しかし、その一方で人間の視覚は、騙されやすく真実を必ずしも見つめないということも誰もが知っています。たとえば、そこに二つの丸があれば、脳はそれを目と錯覚して顔の輪郭を探そうとします。そこに顔がなくても脳にある記憶の過去の映像を参照して顔を作り出そうとします。天井や壁のシミを見て何かの人物に見えるというたぐいのことは、人間の脳のなせる技で、動物にはできません。また、写す時に被写体の位置や遠近などの技法を使えば、カメラは科学でも、作り出された映像は、実態とは違う、様々なだまし絵を作ることも可能です。つまり、自然を何の操作もなしに写した映像は一部の真実を捕らえているかもしれませんが映像は意図さえあれば、人間の脳に訴えることで真実とは違うものも映し出すこともできます。人間が作った映像は脳がどのように反応しどのように解釈するかを綿密に計算して、真実とは程遠い判断を導くこともできます。つまり外からの刺激を脳を通じて解釈するときに、自然の真実をそのままに情報として伝達するのではなく、自身の経験という脳の経験を基礎として判断します。ですから、脳にどんな情報としての経験値を蓄積しているかで自然からの刺激を受け取ることができるか、出来ないかが決まってきます。自然からの情報は、動物の持つ五感と六感で受信します。ところが現代人は、受信機能に自然情報のデーター組み込みをほとんど怠るようになりました。その結果、自然刺激の頂点たる「精霊」からの刺激を受け取ることは出来なくなったのです。

 聴覚は、視覚以上の距離や暗闇でもその音を生活の中で安全のために利用しますが、聞いたことがあるという経験なしには活用できません。言葉もその音が何を指すかを共有しているから確認できますが、聞こえても脳に経験の記憶がなければ何の音か、言葉なのか、生活音なのかさえ確認できません。風の音だとしても、ビルを走る風と林を走る風、水の上を走る風の違いを想像できるのは、経験によります。水の流れる音にしても同じです。小川のせせらぎという様な、水の音で川の流れを想像することは経験不足、情報がありませんの時代になりました。同様に、臭覚も低下しています。極端ですが、水のにおい、血のにおいなんて、もうとっくにわからなくなっています。なぜなら、今は、脱臭、臭いを消すことに必死になっているからです。動物のマーキングは匂いです。臭いを親子の識別に使用している動物も多く、過去には臭いで差別があるぐらい人間同士でも臭いがあって、友達の家に行けば、その家の臭いというものがあったものです。それが職業だったり、仲間意識だったりしたものですが、身近な臭いがなくなって、臭いで安全か危険か判断する基礎データーとなる臭いも消されていますから、感覚器としての臭覚は機能低下しているのです。さらに、味覚としての感覚器を麻痺させているのが、旨みを追求した料理です。現在の料理は、テレビの効果もあって、素材の味では無く何かが加えられていなければ料理とは言わなくなり、人の手で作られた旨味がない料理など無くなりました。結果として、誰もがおいしいという普遍的な味の追求と添加物に麻痺されて、素材そのものを食べて判断するという経験は失われていきました。日常食べている素材でも、添加物化が加えていなければおいしくないと判断するような感覚に育てられています。そして、触覚は、人工物ばかりで、自然に触れる経験も無くなりました。芋虫を触るとどんな触感か、ミミズを持つとどんな触感かの記憶は脳にはないのです。木の肌に触れれば、何の木か推測することすらできなくなりました。こうして、五感がマヒさせられた現代人には、六感などと言う感覚も、架空の感覚となってしまい、今ではその言葉すら聞くことも使用することもなくなりつつあります。五感を研ぎ澄ますことは、自然からの刺激を受け止める受信機をメンテナンスすることです。そのことによって受信機としての機能と経験値が高まり、五感では感じられなかった「精霊からの刺激」を受信できる機能となってくるのです。人工物だけに依存する生活にならされてしまうと、「精霊からの刺激」を受信できなくなり、自分らしさがなくなってしまうのです。