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知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

いじめ内部通報は善意者の勇気の話

「チクリやがったな」と言うのは加害者の舌打ちです。内部通報は善意者の勇気です。集団になれば「いじめ」は必ずついて回りますが、いじめた方はいつだって「軽い気持ち」「ちょっとした遊びだった」「ふざけていただけ」なんて本当に被害者の気持ちなんて分かるはずも無いぐらい立ち位置が違います。でも、自ら手は出さないけれどその場の環境として存在していた人は、誰だって気がついています。人間は、自己防衛機能として自分がいまどんな環境に置かれているかを即座に判断して自分の行動を決定しています。ですから突然大声が聞こえたなら声の方に視線を向けそれが喧嘩なら状況を見て直接かかわる仲裁に入るか傍観するか通り過ぎるかを決めます。まして一つの集団の中にいれば、小さな声であっても聞こえますし、周囲の状況や情報も適正に観察し判断しています。ですから、いじめがあった集団では、余程鈍感で無ければ「まずいなー」程度でも気がついているはずです。ところが日本の誤った集団維持機能として情報を外部へ漏らすのは、卑怯な手段であるという「掟」が「道徳」のごとく連綿と続いて「まずいなー」を是正する機能がないのです。むしろ外へ情報を漏らすことは組織・集団・仲間への、裏切り、漏洩、告げ口と悪い事となって、恥とまで思われてしまいます。ですから、最近でも組織内では反対派なのに、組織防衛として内部の悪事まで隠し続けることが大きな企業でもありました。つまり、一つの集団が形成されると集団の維持が目的に変質して強いものが不正をしてもそれを是正できる機能は日本の集団にはないのです。自治会とかのような組織でも監査が必ず置かれているのに実は執行部と一緒だったりして内部統制機能不全は、日常に溢れています。そして、学校では、三権分立などということは建前で語っても、内部統制という機能が大事なことは教えることがないのです。学校では、いじめがあれば気づいているクラスメイトが何人してもそれを是正する機能も手段もないのです。いじめをなくそうと学校の教員にどんなに発破をかけても、組織防衛が優先する学校には、内部統制機能も是正する機能も実はないのです。

 いじめの世界では、いじめの対象となった人は、実は我慢強くて他者への攻撃力がとても低い人なのです。福島からの避難者は「ばい菌」扱いされても何年も我慢しています。そして、周りには気づいた人が何人もいたはずなのです。ところが、本人は、「いじられキャラ」のような対応をして気にしていないというのです。経験の未熟な大人の調査はそこで終わるのです。自身が傷っいた経験がなくとも、人はどんなことで傷つくかを学習しない教育者は、成長と同じぐらい傷つきやすい世代の「そんなことで」と思う傷と我慢を見つけ出すことはできないのです。そして、いじめとまでは思わなくても、「まずいなー」「いきすぎじゃない」と思った生徒がいても、その疑問を解消する手段も機能も実はないことに初めて気が付くのです。いじめをなくそうというスローガンを掲げても、実は解決する手段としての機能は何もないのです。話し合いなんてやっても上辺だけで底に沈んだいじめを見つけることは出来ないのです。つまり、今の日本には、内部統制機能は働くどころか無いに等しいのですから、せめて通報することで抑止力の一端を担ってもらうしかないと思うのです。それには、内部通報は卑怯ではなく、「諫言」だということを教えていくべきだと思うのです。(諫言、主君に対しても、差し迫ったものについての警告的なアドバイスをすること)