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知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

新しい貧困を考えるほど日本は豊かでは無いの話

 殆どの人が、ネクタイは無駄だと感じていると思うのです。でも、正装という事からは外すことは出来ません。衣類は、長く身分を表す物でした。作業着なんかは、職業を表していますし、制服は所属を表しています。つまり、社会の仕組みとして服装はその人の社会的位置を表現したものとして考えられてきましたから、服装の乱れは、心の乱れとまで言われるほど、外見としての服装は今でも多くの人が気にしています。クールビズなどの例外はあっても、全く無駄なのに正装では明治以来ネクタイを着けることになっていて変える事が出来ないのです。ですから、みんな外見には気を遣っていて、お金が無くてもそれなりの服装をすることで外面を装っていると言う事があります。過去には、貧乏人は、継ぎ接ぎの服を着て、古着を着て、もらい物でしか着ることは出来ませんでした。それが、現代では、服装では貧しいのか貧しくないのかが分からなくなり、100円ショップでもネクタイが買えるので、貧乏でもネクタイぐらいは締めているのです。そんな中、NHKニュースで貧困が話題となり、実名で出た女子高生が随分攻撃を受けていることで、それは「貧困」の解釈が違うと弁護する発言も増えてきました。ただ弁護する方が、貧困には、「絶対的貧困」という食べ物も食べられない貧困と、人間的な生活と言う事から捉えた「相対的貧困」というものが有るのだと言う論理で弁護しているのですが、明治のネクタイのように欧米の受け売りを最先端の話にすり替えるのは良くないと思うのです。確かに相対的貧困の考え方は、絶対的貧困を克服した上で尚且つ隠れた貧困を考えるという視点では素晴らしい発想です。ですから、欧州で、「貧困を再発見した」と評価されても良いのですが、それが今回の事例を正当化する論理とはとても思えません。何故なら、日本は、みんなが中流社会と言われたように、会社の社長になっても大した給料ではなく、現在のように欧米に真似て何億円も貰う社長など居ませんでした。そして成金と言って金持ちになって派手に使用すると非難されたり揶揄されたりもしたのです。日本は貧富の差という事で言えば、戦前のような大金持ちという一部の富裕層と大多数の貧困層という事では無く、大部分がある意味の中流という位置を占める社会を構成してきたのです。ところが欧州には、はっきりとした貧富の差が日本など比べものにならない位今でもあるのです。そこで研究された相対的貧困の考え方を、何の条件も加えずに、日本に持ち込むことは間違っていると私は考えています。現実に先進国にも絶対的貧困は存在していますし、移民問題なども貧困の問題と切り離して考える事の出来ない欧州の抱える問題だと思います。つまり、子どもの貧困と言う事を考えるときに実名まで出して頂いたこのケースが適切だったのかという事の方が問題だと思うのです。相対的貧困という新しい概念を説明するのに、何故母子家庭で無ければならないのか、専門学校への進学断念で無ければならないのかだと思うのです。

 日本の大学短大への進学率は、6割弱で専門学校も含めると7割近くなりますから、みんなと同じでは無いと言う言い方も出来ますが、高校と違って特別な資格で無ければ高校からのストレート進学でなくとも、社会人の経験の上で、進学できる方法は多様にありますし、生活保護世帯や母子・父子家庭世帯では生活が苦しいと言う事は既に幾度も報道されていることなのですから、新しい貧困の事例にはならず、女子高校生という実態に攻撃や中傷をかぶせただけになってしまっています。例えば、一般家庭でも進学について、東大などの有名大学は裕福な家庭が有利だと言われています。その理由は、同じ能力でも、塾や家庭教師の指導を受けないと受験と言う特殊な技能を会得できず、その機会の無い貧しい家庭の子どもは不利だと言う事です。結局、母子家庭とか進学を諦めたとか、冷房がないとか、キーボードだけで練習したなどが、演出効果のようにしか見えず、新しい貧困の話にはなっていかないのです。日本には、現実に絶対的貧困が今も存在していますし、服装では貧富の差が分からないぐらいまできただけで、まだまだ貧しいことが山ほどある国だと言う事を考えるべきだと思うのです。