知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

24時間テレビの禁忌、障害への嫌悪の話

 24時間テレビが、今年も感動の涙の中で終わりました。このテレビによって、車両寄贈等の恩恵を受けている福祉施設は多くてとても感謝されています。障害があっても一生懸命努力している世間には、知られてはいなかった色々な人が社会に紹介され、人々への啓発もとても良く行っています。その功績はやはり計り知れないと思われます。テレビが家庭で重要だった時代から、今日まで継続していることも素晴らしい実績だと言えます。このテレビを通じて障害者も頑張っていると言うメッセージは十分に届けられていると思います。そして、はじまりとしての福祉への関心としてテレビを見る子ども達のこころへも深く関わっていると思います。

 さて、ではその次をどうするかです。そう、テレビを見てくれている殆どの人がその日常生活の一つのイベントとして高い関心を持ってくれるのですが、それが、次のステップへとは中々繋げていけない実態があるのです。テレビは多少の演出と共に本音や隠したいものをさらけ出すものではありません。実際に放送される物だって、沢山の映像の中から構成されて作られた部分も多くあるのだろうなと言うことは、疑い深い大人だけで無く、感じている人もいると思うのです。どんなことにも、舞台の上と舞台裏は少し違うと言う事を知っていますから、こんなに感動的な日常を送っているのだと思う事と、実際に関わってみたいと思う事は別々です。そして、無意識のうちに感じている障害への嫌悪に気づいてやっぱりイベント、テレビの中に留めておこうと一歩も二歩も後ずさりする感覚だと思うのです。それは、第一に障害で無かったと言う事と、もし障害があったらと言う事に関わっています。障害は、無ければ無いに超したことはないのです。でも一方では、保険の勧誘のように、もし万が一事故に遭ったら、年老いたらあなただって障害を持たされる可能性があるのですよ聞こえてくる、負のイメージ、負の価値観、負の不安によって、誰もが障害は憎むべきものであって寄り添うものだなんて思ってはいないからです。それは病気も同じです。病気は闘うものであって嫌悪の最たるものでもあるのです。だから、病気と闘う人は、美しく、たくましく、素晴らしく他人のことなら思う事はあっても、自分は関わりたくないという対象でもあるのです。実際の障害を持つ人に出会ったなら、差別をしてはならない、人権無視をしてはならないとみんな遠慮と警戒の中で接し、疲れと不安で、日常的なお付き合いは進みたくないのです。そんな、無意識に持つ負担感が、障害への「見えない段差」となっていることにはまだ気づいていません。テレビの向こうで起きている、障害者の感動に拍手はしても、その時だけにしたい気持ちは変わらないのです。つまり、人間は感動しても、行動と必ずしもなりませんから、どんなに感動しても、実際に会って紹介されて、紹介の次ぎの、お付き合いとならなければ、知り合えるということは出来ません。でも、感動的な障害者像には、尊敬しても、日常的な障害には、やっぱり嫌悪しているのです。奇声を上げ走り回っていない、車いすの障害者にだって、好奇の目で見てしまう環境はまだまだあるのです。パラリンピックのアスリートも少数者の中の少数者であり、障害者を晒し者にするなと言われるテレビの中では、素直な障害者支援の気持ちだけが、浮き彫りになるのです。本当は、社会が困った人だと思われている障害者に接するなら、視聴者は驚きと違和感を感じ、視聴者が本音で持っている障がいへの嫌悪に気づくはずです。これは方法論の話です。どんな切り口でどんな方法を選択するかは、実践者が決めることです。そう言う意味では24時間テレビは成功なのですが、その次ぎに、視聴者の思い込みに違和感を突きつけるような現実があっても、無意識に感じる嫌悪感がもやもやしないような関わりを作っていく取り組みは困難を続けているのです。