知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

死んで自由になった花子の話

 動物園は、国の凄さを示す一つのショーウインドウだった時代があります。それは、大英帝国が世界中に植民地を持っていたときに植民地の珍しい動物を集めて、権威を誇示したときに始まります。動物愛護なんてことは全くなくて、英雄気取りで娯楽としての、ライオン狩りや象狩りが自由に出来る時代の事ですから、動物を自由に捕らえて来るなんてことも簡単でした。しかし、生きている動物には、食事代だけでなく、管理する人件費を含めた運営費が必要ですから、その費用は、動物を見世物にして稼ぐことになります。そして稼ぐためには、動物の生態など尊重できませんから、夜行性で昼間は寝ていたい動物でも隠れるところもない檻の中で、観客に見えるように仕掛けることとなりました。結果、動物は、檻の中をただウロウロするなどの常同行動しかしなくなり、毛が抜け落ちて死んでしまうことが繰り返されました。それでも野生動物を勝手に狩猟して供給することが出来ましたから、動物園は、長く続いて今日に至っています。今度死んだ花子は、併設された小さな遊園施設もある公園の一角で、実に狭い敷地の中に閉じ込められていました。国際的な基準もあるらしいのですが、その半分にも満たない広さの中で、一頭だけと言う生活をずっとしていました。動物には、単独型と家族集団型がありますが、家族集団型の動物は、殆どが母系家族の集団で、雌は生まれてから死ぬまでその集団で暮らすことが多く見られます。雄は、成長すると追い出され、自分のグループを結成するか単独で行動します。つまり、雌で集団で暮らす動物にとっては単独で暮らすと言う事は監獄の独房に入れられて暮らしているのと同じとも言えます。今回死んだのは、花子というぐらいですから母系家族で暮らす雌の動物です。死んだことを知らせるテレビには、この動物から元気を貰ったとか、毎日見に行っていた人達が先日までは声をあげていたけれど最近は聞かれなくなったとか、残念だとか、言っていましたが、もし、動物の声が本当に理解出来たなら、「助けて-」と言っていたかも知れません。そんな叫びさえも上げることを諦めて仕舞ったことを、飼育員は十分に知っていたはずです。

 人間は、自分に都合良く言うでしょうが、この動物の死は、孤独死でしかありません。何の罪も犯していないのに、獄につながれて、長く見世物として晒されて、繁殖ということも無く年老い自分の置かれている状況も知ることなく死んだのです。自然界の群れで暮らす事は、生死を掛けた辛いもので、もっと早くに他の動物の餌になっていたかも知れないという言い方も出来るでしょうが、長くは生きられなかったとしても、動物としての生活の方が受け入れやすかったと思うのです。確かに、学習として多数の生物の実物を見ることは意義ある事かも知れません。しかし、形を見るだけの見世物としての動物を見てどれほどの価値ある学習となるのかと、その為に一頭の動物を獄につなぐ価値とを考えたなら、もう既に、そんなことをしなくても学習する場は多様にある事はもうみんな知っていることです。その動物の生態さえ分からないという時代もありましたが、今ではその動物の本来の生活とはどういうことなのか分かっています。狭いコンクリートに繋ぐことが虐待だとも分かっているはずです。ところが、それが分かっているのに、年老いても動物園は、解放すると言う事はありませんでした。また、支援していると言っても、古里へ帰すと言う運動さえも起きなかったのです。人間は、動物を隔離し調教し、見世物としているだけでなく虐待も十分しています。その事を、動物学者も動物を愛しているという人も云いません。例えば、鳥や豚や牛が毎日殺されているところは、絶対に誰にも見せようとしません。解体され原型が分からなくなったものしか見せません。にも関わらず、命の大切さを誰もが語ります。命を頂いていると言いながら、命を頂く瞬間は絶対に見せないのです。その理由として、子どもへの配慮と言いますが、世界の遊牧民や民族の中には目の前で屠殺したからと言って子どもの精神が混乱したりはしていません。むしろ動物の命を奪う瞬間を見ることが、命とは何かを理解させる瞬間でもあります。今では、大人だって動物の死に出合うのは、ペットの死ぐらいで、生活のための死は隠されています。人間に捕らえられた動物は、結局死ぬ事でしか自由になれないという事を、花子の死は実証していると思うのです。