知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

迷惑から仕方がないへの話

 過去に、「小さな親切運動」と言う事があり、人に親切にすると言うことが奨励されました。その事をもじって、「小さな親切、大きなお世話」という反発がその後ありました。人の為に何かをすると言うことよりも、まず人に迷惑を掛けないことの方が大事だと誰でもが説きます。しかし、現実の社会で一番、大きな迷惑は、政治と言う事もあります。そして、迷惑を掛けてはならないと力説する人ほど、政治の迷惑に関しては鈍感で、仕方がないこととして、容認してしまいます。力が強いと迷惑な行為も黙認されてしまうと言うことは、社会ではどこにでもあります。そこで考えなければならないのが、迷惑と言われることの中身です。例えば、ゴミ処理施設、福祉施設、などは迷惑施設とされて地域の方に媚びを売るような対応をしなければならない事もあります。一方 消費税を上げるはみんなが、大迷惑と思っているのに、仕方がないとされてしまいます。ゴミ処理施設は、誰もが設置が必要だと思っていても、自分に関わらないなら迷惑施設ではなく、自分の隣に出来るなら迷惑施設だと反対します。仕方がないと諦めることが出来ません。税金が上がれば、確実に自分に降りかかるのに仕方がないと諦めます。この違いはどこにあるのでしょう。知的障害のある人が施設に通勤していますが、電車の中で歩き回っています。中には、いつも同じ場所に座りたくて、先に座っていた人をどけさせて座ると言う事もあります。最近は、こんな行為でも同乗している人は仕方がないと迷惑な表情をしながら、黙っています。同じように、学生が迷惑な行為をしても注意する人はいませんし、大人の方が、マナー違反を平気でしていることがむしろ増えています。でも、迷惑だと表現すると、危害が加わるかも知れないと仕方がないと見て見ぬふりをします。昔は、注意したと云う人もいますが、それは、大人の力が学生より社会的に強いと認識されていただけで、触らぬ神に祟りなしは普通の事で、そんな人もいたという話に過ぎません。つまり、人は相手を見て、自分より弱ければ、迷惑だと言いますが、自分より強そうなら、仕方がないと判断します。決して、状況を理解しているのではありません。

   福祉は、常に消費です。どんなに投資しても、利益を生んで戻っては来ません。ですから、過去から、社会に迷惑を掛けないのなら、仕方が無い支出とされてきました。過去には、生きていること自体が迷惑とされ、姥捨て山や間引きの対象とされたこともあります。日本の古事記には、神様が初めて産んだ子なのに、ヒルのようだったので「ヒルコ」と名付けて船に乗せて川に流してしまいます。神様でさえ、仕方が無いと育ててくれたのではなく、迷惑と排除されてしまいました。ですから、悲しいかな福祉は、迷惑を掛けないだけではだめで、仕方が無いと諦めてもらった範囲にいつも止められているのです。行政は、福祉法人に地域に貢献しろといい、迷惑施設から仕方が無い施設への転換を図れと勧めています。しかし、迷惑は非難ですが、仕方が無いは言ってもしょうが無いから諦めたと言うことですから、理解したと言うことではありません。理解していないと言う事は、いつかまた、迷惑という時代がやって来るかも知れないと言う事です。福祉に関わる沢山の法律があり、差別が禁止されても、仕方が無いと諦めさせる方法では、社会全体が貧しくなると一番最初に迷惑と言われてしまうのが福祉です。迷惑は排除に繋がり、仕方がないは今はとい言う限定でしかありません。現在の福祉は、理解されているのではなく、限定された仕方がないで成り立っているのです。