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知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

評価で人は育たないの話

 人は好みのことを過大評価し、好まないことは過小評価する傾向にあります。ですから、好きな人はあばたもえくぼとなりますが、嫌いな人には、ニキビもできものになって仕舞います。そして、自分に対する評価を気にしながら、人の評価は自分を正しく評価していないと非難的で、自分への悪口にはとても敏感に反応します。人は、日常生活で、常に評価の対象となっていることを嫌いながらも、他者を評価し、自己評価と比較しています。つまり、人は比較しないと言いながら、評価に弱く、本当は評価好きなのです。ですから、人材の育成本や研修、人材コンサルなどでは、如何に評価するかの方法が競われます。それでも、繰り返し人材育成論が流行るのは、人はどんなに工夫しても、どんなに方法を変えても、適正な、評価が出来ず、簡単に育成されないからです。つまり、どんなに評価し、誉めても、非難しても自分の都合の良いように意識的に人を変えることは出来ません。マインドコントロールとか、洗脳と言う事がありますが、一定の条件の中に隔離するような環境を作るか、本人の主体的感情が傷ついているなどの状況が無ければ、そんなことは出来ません。せいぜい行動規制は出来ますが、望むような行動へとは必ずしも繋がりません。師弟関係でも、師にコントロールされている限り師を超えていくことは出来ないのですから、師が思うことと同じ事は思うことはありません。親の心子知らずと言いますが、子は親を超えて初めて客観的に親を見ることが出来るのですから、親を超えずに親心を分かるはずがありません。どんなに洗脳しても、期待する人材にはならないのです。社会の人材育成は、生活と言う賃金による脅しが十分に効いているから素直に受け入れていますが、もし生活しなければならないという絶対的条件がなければ、現在の人材育成に参加する人などいなくなるでしょう。それは、評価言う呪縛から解き放されてしまうからでもあります。つまり、人を評価する、人に評価されるは、人間の本質ではないからです。社会・組織と言う関係が、作り出したもので、人間はそれほど他人を理解したいという事より、自分を大事にすることの方が興味関心があるからです。そして、どんなに理論化したと語っても、項目ごとで判断するときには、評価は感情的なのです。そして、人は好みの人を過大評価し、好ましくない人を過小評価するのです。何故そういうことになるかというと、どんな人材を育てたいかと言う事が曖昧だからです。これまでの歴史を見ても、その時代や状況で求められる人材は全く違うのです。例えば徳川家康に重宝された武勇派の武将は、平和になったら衰退し、官僚派の武将に乗っ取られていきます。戦争中には、絶対的ヒーローですから武勇伝に照らして育成していると、平和になった途端、ただの戦争好きで手柄ほしさに戦争したがるようなだめな人間と評価されます。よかれと思って国が指導した「ゆとり教育」でさえ育成ミスとされてその時代の人みんながだめなように評価されています。社会が求める人材などは、以外と目先のことで、会社だっていつ倒産するか分からないのに、何年後に役立つ人材を求めているかというと実は曖昧なのです。つまり、人材育成は合い言葉の様にみんなが言いますが、どんな人材なら未来に対応できるのだというと回答を持っていないのです。都合良く働いてくれる人=人材になりかねないのです。

 現実に、評価も低く、何も期待していない人が困難な状況の時にあっさり出来たり、何気ない言葉で一気に動き出す人がいたり、人は何かに反応すると、それまでの評価なんて吹き飛ばしてしまう人の方が遙かに多いのです。そんな事例を何とかまとめて作っている評価法は結局過去の刷り直しに過ぎず新しい人材育成には役にたたないのです。確かに、たった一度しか誉められなかったことでも長く本人の中に残っていて、それが相当の効果に繋がったという事例もありますが、それは誉められた内容やタイミングなど心に残る誉め方でして、簡単に出来るわけがありません。だから、評価という言葉に魅せられている人は、評価が正しいと信じ、評価好きですが、評価自体が感情的ですから、評価に基づいて人材育しょうとしても、人は育たないのです。評価という、呪文に縛られて会社に尽くしても会社に都合の良い人間にはなれますが、自分を大事にする人間には成れないのです。